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猛将!|3分でわかる柴田勝家(しばたかついえ)

織田信長の父、織田信秀の頃から仕え、織田四天王の一人として有名な柴田勝家。秀吉に天下を取られ、最終的に自害することとなるが、もし秀吉ではなく勝家が戦に勝っていたのであれば歴史は変わっていたかも!?そんな柴田勝家をまとめてみました。

更新日: 2014年10月16日

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①織田信秀時代から織田家に仕える

信長の父信秀の時代から織田家に仕える重臣。信秀の死後、後継者争いで信長の弟信行に家老して仕えていたが、兄信長に1556年戦(稲尾の戦い)で破れ、ただの『うつけ者』ではないと悟り、剃髪して自害を信長に申し入れるが、信長がこれを助命する。その後、再三信長を殺そうとする信行に愛想をつかし、信行の暗殺計画を密告したとされる。信行の自刃後は、信長に仕える。

②人物像

武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている

「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」

「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」

ルイス・フロイスの勝家評

③織田家武将の唄に登場する

かかれ柴田に退き佐久間 米五郎左に木綿藤吉

意味
柴田・・戦での突進力に長けている
佐久間・・戦での退却のうまさに長けている
五郎左(丹羽長秀)・・米のように必要という意味
藤吉郎(豊臣秀吉)・・木綿のように丈夫と言う意味

明智光秀(あけちみつひで)が入っていないのはなぜ?

この唄は1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を奉じて入京した頃流行ったものだといわれています。その当時、明智光秀は朝倉義景の家臣でしたが、将軍家再興を図る義昭の近臣・細川藤孝の取り成しで義昭に仕えていました。
光秀が織田家に仕えたのは1569年(永禄12)以降であり、信長と義昭が対立した頃に直臣になっています。ゆえに光秀が謀反人だからこの唄から外されたのではありません。

④織田四天王の一人に入っている

天下統一事業に貢献した4人

・柴田勝家(しばたかついえ)
・丹羽長秀(にわながひで)
・滝川一益(たきがわかずます)
・明智光秀(あけちみつひで)

羽柴秀吉を加えた織田5大将とされる時もある

⑤お市と結婚する

信長の妹で、茶々→淀殿(豊臣秀吉の側室)、初→常高院(京極高次の正室)、江=お江与(徳川秀忠の正室)の母親でもあるお市は、本能寺の変後に秀吉の仲介により、結婚する。

二度も夫が戦に負けてしまうこととなり、『悲劇のヒロイン』といわれることもある。また、『絶世の美女』であったともされている。

⑥賤ヶ岳の戦い( しずがたけのたたかい)

織田信長、信忠親子が本能寺の変で横死し、織田家の政治主導権を争った羽柴秀吉と柴田勝家が武力衝突した戦い

賤ヶ岳の戦いで敗北後、前田利長の居城府中城で前田利家と対面した。秀吉の親交の深かった利家が先に陣を引いたがそのことを責めはしなかった。勝家は利家に対し、今までのことを謝罪した。
「加賀金澤前田家譜」

⑥絶世の句

権力者争いで秀吉に敗れた勝家は越前の北ノ庄城にてお市とともに自害する。

絶世の句は
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」

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