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嫌われ者上等!|3分でわかる石田三成(いしだみつなり)

物事は表裏一体。最後まで豊臣家の為に忠義を尽くしたとも解釈できる石田三成(いしだみつなり)。しかし、豊臣家を自分の意のままに操ろうと目論んでいたとも解釈できる石田三成(いしだみつなり)。そんな彼はどんな人物だったのか。3分でわかる石田三成(いしだみつなり)良かったらご覧ください。

更新日: 2018年07月20日

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①石田三成(いしだみつなり)簡単な生い立ち

石田三成は、近江国(滋賀県)の石田村の豪族であった石田正継の次男として1560年(永禄3年)に生まれる。幼名は佐吉。

後の豊臣秀吉が、織田信長に許されて初めて長浜城を与えられた時に、秀吉の小姓として出仕した。

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される

慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛とともに出征軍の大将となることが決定していた。 しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。

三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の7将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件がおきる。

うまく事前に逃げ切ります。

関ヶ原の戦い

簡単に説明すると、関ヶ原の戦いは豊臣政権下での覇権争い。
石田三成に豊臣家を任せられるか!!と嫌った武将が東軍についたと解釈できます。

小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。

寝返りをためらう小早川秀秋の陣に徳川家康が大砲を放ったという話も伝えられている。

戦はわずか一日で惨敗・・・

徳川家康の命で六条河原で斬首された。

絶世の句は
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」

②石田三成は本当に嫌われ者なのか?

大和大納言秀長の死去後次々起きた利休自害、秀次処分の際の前野但馬自害や妻子の成敗などの出来事は、いずれもこれまでの秀吉には考えられない残虐で陰惨な行為でした。

共通項はこれらの人物がいずれも三成の目の上のたんこぶであったこと。無論これらの処分に秀吉の意志があったのは間違いないでしょうが、秀長の在世時と死去後であまりに対応が違い過ぎるのであれば、秀吉の側にいた人物、すなわち三成の関与を疑われても仕方ないでしょう。

自分に意見してくる者に対しては秀吉という絶対権力をうまく利用し成敗した可能性は否定できません。

しかし・・・

死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった石田三成。しかし、彼は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男だ。西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われてきたが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、敬意を示した敵将など、彼らは人格者としての三成の素晴らしさを身をもって語っている。何より、三成に人間的な魅力がなければ筆一本で東軍を上回る9万もの兵を2ヶ月で集められるわけがない。真に国土の繁栄を願い、自身の居城は極めて質素。敗者でなければ英雄になっていた男だった。

今回は官兵衛が主役なのでどうしても三成は悪役として描かれていますが、果たしてその真相は?武功をあげずに成り上がった三成は武闘派に嫌われていたのは間違いないでしょうが・・・。

③名刀 正宗

家康の次男 秀康に名刀正宗を贈る

兼ねてから深い親交があった家康の次男秀康にこの刀を贈っている。その刀をもらった秀康は、関ヶ原の戦い後、三成に敬意を評して、この刀を『石田正宗』と名を改めるようになった。

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