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死の恐怖!克服の仕方

誰もが考える事

更新日: 2015年02月08日

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死んだら無になる。無とは?
自分が無くなる?
嫌だ!嫌だ!
それを考えると恐怖で胸が締め付けられる。

動物は死の事で悩んだりしない。
人間が進化した過程で生じた最大の疑問

出典kaumo.jp

死んだらどうなる?を考えると眠れない!
とてつもない虚無感に襲われる。
時々平常時にも発作のように思い出す。

実は著名人も悩んでいた。

僕は6歳の頃から、死について考えてました。
いつか死ぬ、明日かもしれない。そう考えると怖い。
でも気ずいたんです。考えるから怖い。考えなければ
怖くないと。しかし何かの拍子に心の隙間に入り込む。
だから忙しくしていた。
(アエラ2011年6月6日号)

私は6歳の頃から、心のうちでたえず「死ぬのが怖い」
と叫んでいた。
父や母と別れるから怖いという感情ではなく、私が完全に無になると
言う事。それがなんなのかわからないながらに、本当に冷や汗
が出るほど怖かった。
私が何億年の間、無であるイメージにのたうち回るほどに
苦しんだ。私はずっと無であり続けて何十億年後の世界は
終焉してしまう。私はなんて残酷なんだと心の中で叫び、
放心したように何もする気も起きない。こんなことが数日
に1回の割合で襲ってきた。
(中島義道「 「死」をつきぬけて」「いきにくい私は哲学者」より)

いわずと知れたノーベル文学賞受賞者

眠りにおちいるまえにおれは恐怖におそわれるのだ。死の恐怖だ、おれは吐きたくなるほど死が恐い、ほんとうにおれは死の恐怖におしひしがれるたび胸がむかついて吐いてしまうのだ。おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に! おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたび恐怖に気絶しそうだ。おれは物理の最初の授業のとき、この宇宙からまっすぐロケットを飛ばした無限の遠くには<無の世界>がある、いいかえれば<なにもない所>にいってしまうのだということを聞かされ、そのロケットが結局はこの宇宙にたどりつくのだ、無限にまっすぐに遠ざかるうちに帰ってくるのだ、というような物理教師の説明のあいだに気絶してしまった。小便やら糞やらにまみれ大声で喚きながら恐怖に気絶してしまったのだ。

(大江健三郎「セヴンティーン」)

宮崎哲弥の死の考察

例えば「人は死ぬ限り幸福にはなれない」。ずいぶん身も蓋もないいい様だ(笑)。しかし本当のことである。私も子供の時分からそう思ってきた。例えば「革命してもどうせ死ぬ」ともいう。そう。どんな偉大な革命を成し遂げようが、未曽有の大事業を完遂しようが、不世出の英雄となろうが「どうせ死ぬ」という冷厳な事実の前には塵芥に等しい。「百億年すれば全部なくなる」のである。

私は幼稚園児のときに、人のこの恐るべき運命に気がついた。だが、それを素直に周りの大人に話すと厳しく咎められた。それでも強情に繰り返すと、大人たちは私を諭すべく、あの世だの、霊魂だの、神様だのを持ち出してくるのでウンザリしてやめた。本当にウンザリした。そんなことを悩んでいるんじゃないんだよと叫びたくなった。

仮に霊があったとして、その霊がいつか滅ぶのなら論理的には同じことだ。仮にあの世があったとして、あの世もいつか朽ちるのであればやはり同じこと。仮に神がいたとして、それと自分が合一できるとしても、その神もいつかは死ぬのなら結局同じなのだ。私の戦慄はそんな気休めではおさまらないのだ。もっと恐ろしいのは、神としてであれ、霊としてであれ、天国においてであれ、永遠に生きることだ。死んで無に帰すのも怖いが、永遠に存在するのはそれと等しく恐ろしい。存在という牢獄に永遠に内閉されることは、無に帰すことと寸分も異ならないではないか。

私は絶望し悲嘆した。生まれてしまったことを、存在してしまったことを呪って泣いた。周囲の愚鈍な大人たちは、突如、何もかも虚しくなって泣き出す私をみて、さすがに霊や来世や神様でお茶を濁すことを諦め、「そんなことばかり考えていると、まともな人間になれないぞ」と脅した。この作戦変更は効果覿面だった。「なるほど、そんな風にこの世の中はできているんだな」と得心した。私はやっとわかったのである。娑婆では本当のことを語っちゃいけないんだ、と。

仏教の開祖、お釈迦様です。

「愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している―――自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、―――このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。わたしがこのように考察したとき、生存時における生存の意気はまったく消えうせてしまった(中村元著・春秋社刊・「原始仏教の思想Ⅰ」)」

お釈迦様でも悩んだこの問題!どうすればいいのか?

考えるな!です。
そんな事考えても無駄!
そんなことより今を精一杯生きろ!
それが釈迦の答えです。

それでも考えてしまう方は?

死は終わりではない。
これを信じればこの問題は解決するのでは?
無神論者や唯物論者は無理かもしれないが
私は信じてるから死の恐怖はないです。

死の恐怖は、解決されない生の矛盾の意識にすぎない。 by トルストイ

こんな言葉を送りましょう。 『愛は死よりも強く、死の恐怖より強い。 (ツルゲーネフ)』

私自身の一部分は恐怖と困惑ともって死をながめ、 他の一部分はまず好奇心から、 とりわけ美と愛が充実して現われるのをみたいとの渇望から、 死を望んでいる。byG.ティボン

自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれた。何故なら、外部からの期待、己のプライド、屈辱や挫折に対する恐怖といったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていくものだからだ。(スティーブ・ジョブス)

死の持つ恐怖はただ一つ。それは明日がないということである。/エリック・ホッファー

死の恐怖に直面したときに「命」の尊さが分かる。[レオン]

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投稿しまくりたい!命の続くかぎり