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なぜ起きるのか? 大量遭難事故の例と原因

「単独行はやめましょう」とよく言われますが、その一方で大人数がまとめて遭難してしまう大量遭難も何度か発生しています。いくつか「大人数ゆえの落とし穴に嵌った」と思われる遭難の事例を見てみましょう。

更新日: 2015年11月23日

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Truvativ1さん

木曽駒ケ岳大量遭難(1913年8月26日)

1913年(大正元年)8月26日に発生した学校登山での大量遭難事故。 中箕輪高等小学校(現在の箕輪町立箕輪中学校)の修学旅行登山で木曽駒ケ岳に向かった学生25人に教諭、校長、地元の青年団などを加えた37人のうち11人が死亡した。

木曽駒ケ岳は現在しらび平から千畳敷までロープウェーが敷設されておりこれを使うのが一般的ですが、それ以外にも徒歩で下から登るルートがいくつもあります。この事故が発生したのと同じルートもたどることができ、その場合桂小場が登山口となっています(当時はさらに下の内ノ萱が起点)。

桂小場から木曽駒ヶ岳を経由して乗越浄土までのコースタイムは休憩なしで7時間40分ほど(ヤマケイアルペンガイド)。

責任者である校長は事前に測候所に気象予報を問い合わせ、その結果「曇り、にわか雨」という返答を得ていました。これによって登山は決行されましたが、八丈島沖に停滞していた低気圧(実際には台風)が予想以上のスピードで北上。 信州付近は直撃こそしなかったものの、強い風雨が登山中の彼らに襲いかかりました。

 避難するために向かった伊那小屋は小さいものの上に損傷が激しかったため、風雨が容易に吹き込み体力の消耗を避ける役には立ちませんでした。遮るもののない高所での強烈な暴雨風は容赦なく彼らを痛めつけ、そのうちに一人が低体温症で死亡したことでグループはパニック状態に陥ります。
 
 1人が死亡し次々に人事不省となる生徒が出るに及んで、暴風雨が吹き荒れる暗闇の中で絶望的な下山を開始しましたが、既に体力を消耗しきっていた彼らに再び長時間暴風雨に曝される稜線歩きを耐えるだけの力は残っておらず、次々に倒れていきました。 なんとか下の町まで生還した人間が遭難を伝え、警察や地元の村民により大規模な捜索が行われたものの、校長も含め11人が死亡する大惨事となりました。

何故発生した?

直接的には気象予報の予想以上のスピードで天候が悪化し、頂上付近にいるときに最も風雨が強い状態になったことが原因ですが、既に天候が悪化している中で登山を中止し下山することなく続行し、風雨を遮るもののない頂上稜線で長時間耐えねばならない状況になってしまったのが致命的な判断ミスと言えるでしょう。

 この登山は修学(卒業)旅行でもありましたが、登山によって心身を鍛える鍛練授業の意味合いも強かったため、下山の判断が遅れた可能性もあります。

 現在は伊那小屋があった場所(賽の河原)に建つ宝剣山荘の隣に天狗山荘が、中岳と木曽駒ケ岳との鞍部に頂上山荘があり、悪天候の際に逃げ込む場所は他にもありますが、当時は現在よりも木曽駒の頂上寄りの位置に木曽小屋があるだけでした。 ところが現在と違い中岳の頂上を通るルートにはロープなどは張られておらず、濃霧などで視界が悪いときは迷いやすくなる道の上、中岳を巻いていく道も整備状況が悪く木曽谷に転落する恐れがあったため暴風雨が強くなってしまってからは暗闇の中吹きさらしの稜線を歩いてここまでたどり着くのは不可能でした(伊那小屋での宿泊に拘らずに最初から木曽小屋に向かっていれば1時間程度の距離なので無事に到着できた可能性もありますが…)。 また、濃ヶ池の分岐から直接木曽駒ケ岳に向かうルートは「馬の背」と呼ばれる痩せ尾根を通らねばならず、暴風雨の下で通過するのは非常に危険なため使うことができませんでした。 あとはふもとの村に降りるまで安全に休める場所はなく、下山するとなっても3~4時間は標高2500mを越える稜線で風雨に曝され行動しなければなりませんでした。

 また、避難小屋として使用した伊那小屋にしてもわずか4坪程度の小屋であり、損傷が激しく、悪天候となった場合には風雨が吹き込むところに一畳あたり4~5人がすし詰めになることになります。 いくら鍛錬とはいえかなり無理がある計画だったことになります。

この大量遭難により学校登山そのものの是非が問われたものの、学校行事としての登山は無くなることはありませんでした。 ただしこの事故をきっかけに木曽駒の前に予行演習として事前の鍛錬登山がおこなわれ万全が期されるようになりました。

 一方、事故の発生したこのルート上では避難小屋の必要性が指摘され、七合目にあたる将棊頭山の近くには避難用の石室が整備されました。その後石室は次々に増改築され現在では西駒山荘となっています。

 損傷して山小屋としては用を為さなかった伊那小屋があった場所には宝剣山荘が建ち、現在多くの登山者が利用しています(←画像)。

逗子開成高校山岳部 北アルプス唐松岳八方尾根遭難事故(1980年12月26日)

年末の冬山合宿を行った逗子開成高校山岳部の生徒5人とリーダーを務める顧問の教諭合わせて6人が吹雪で道に迷い、全員が死亡。

その後「クラブ活動」か「課外活動とは関係のない自主行動」かで遺族と学校側が対立。既に分裂していた教職員組合も遺族側を支持するものと学校側を支持するものに分かれ紛糾、ついには裁判に発展した。 責任を放棄した当時の理事長に代わって理事の1人である徳間書店の創業者・徳間康快が事態収拾のために精力的に働き、和解案を受け入れる形でようやく決着した。

12月25日に白馬村着、ロープウェーとリフトを利用ののち八方池山荘まで登りテント泊。
26日に唐松岳に往復し、27日に下山という予定で出発。

しかし、26日。午前11時にテントを出発し、第三ケルンで休憩しているところまで目撃証言があったが消息はそこで途絶えた。 捜索の末、半年後にテントを張った尾根筋から90度もそれた北側の谷底「ガラガラ沢」で全員の遺体が発見され、吹雪の中で進行方向を見誤り谷へ下りてしまったと推定された。 遺体は比較的まとまって発見されたことから雪崩による遭難ではなく、発見現場の近くでビバークしたまま死亡したか、斜面でビバーク中に死亡したものが押し流されたとみられている。

何故発生したか?

そもそも年末~正月の時期に「八方池山荘から唐松岳に一日で往復」という行程自体にかなりの無理がありました。
この周辺は有数の豪雪地帯で、大学の山岳部でもあまりの豪雪で訓練にならないため冬季訓練の場所としては敬遠することもあるような山でした。 スキー場のリフトがあるため容易にアプローチが可能ですが、この山が雪山入門として登られるのはGW前後なのです。

 このような山を選ぶわりには生徒の冬山経験が豊富だったわけではなく、一番経験のある生徒でも冬山が初めて、1年生の二人は春山すら登ったことが無く雪山自体が初めてという有様でした。
このため、ある二年生は「(七里が浜で起きた同校のボート沈没遭難事故につづいて)今度は山の歌ができる」と父親に漏らしていました。

ある生徒の父親は他の高校の山岳部顧問を務めるなど、山の知識のある人物がいましたが、この計画が危険すぎるとして欠席を申し入れていました。 ところが…

この申し入れに対し、顧問で引率の教師は「唐松岳には登らない、雪上訓練をするだけです」と返答しています。 これで安心した生徒の父親は山行に送り出してしまうわけですが、実際にはこれが口先だけのごまかしだったらしく、遭難後に生徒の家に届いた年賀状(出発前に投函されていた)から唐松岳に登るつもりだったことが判明します。

加えて、1人当たり30㎏近い装備を持ち込みながらテント場には本来必要な装備(輪かんじき、磁石、非常食、ヘッドランプ、ツェルト、スノースコップ等)が悉く残されたままで、ほとんど空身の状態で出発したことも明らかになりました。

この顧問の教諭は豪雪の冬山に行くにも拘らず、出発前に「輪かんじきはいらないが持っていきたいものは持って行け」と指導しており、必要な装備を持たずに出発したことも併せ、そもそも自分たちが向かう山がどんなところなのか、冬山の経験も知識も碌にが無かったのではないか…と疑問視されることになりました。

また、11時という出発時間も日の短い冬の登山としては遅すぎました。
この時点でまともに唐松岳に往復する気があったかも定かではありませんが、既にここまで失策を重ねていることから鑑みて、これすら重大なミスと気づいていない可能性が否定できません。

引き返す途中で吹雪で視界が悪くなっても磁石を持たずに出発したため進行方向を大きく誤っていることにも気づかず、日没とともに完全にルートも現在位置も見失い、谷底へ向けて進んでしまった…と判断されました。

その後

「正式な許可を求めれば禁止されるのを承知していたはずで、正規のクラブ活動と認められない」とする学校側と「計画は体育顧問会議で了承され、教頭に提出された」「教師が引率した」正規のクラブ活動であり、安全保持義務違反と教師の使用者責任を問う遺族側の話し合いがこじれ、裁判に発展。 学校側が賠償金に近い形の和解金を支払うことで和解が成立しました。

一方、顧問の教諭は「山歴20年のベテラン」とされていましたが、主舞台は夏山で冬山の経験が無く、山岳部や山岳会の所属経験もないことが明らかになりました。また、こうした山岳部の顧問のために開かれる高体連の冬山研修も一度も参加したことがないことも判明し、「未熟なリーダーの引率による登山」の姿が浮き彫りになりました。 80年代にはその後もこうした「自称ベテラン」の「未熟なリーダー」による引率登山の事故が何件も発生しました。

立山中高年大量遭難(1989年10月6~7日)

関西の税理士グループの秋の紅葉観望レクリェーション登山に参加した10人のうち8人が死亡。2人が意識を失った状態で救助され一命を取り留めた。
山岳会や大学山岳部に所属していない中高年の未組織登山者による最初の大量遭難とされる。

雄山で昼食をとり、剱御前小屋に宿泊の予定

遭難事故を起こした日の予定では室堂から一ノ越、立山三山、真砂岳と縦走し剱御前小屋がゴールというものでした。紅葉シーズンの立山周遊ルートとして人気のあるコースで行程自体に無理はありませんでしたが、前線が接近したため出発時には既に降雪が始まり、彼らにとっては想定外の真冬の天気となっていました。

この天気の悪化自体はある程度予想され、周辺の山小屋でも「今日の山行は中止にするか、天候が悪くなったらすぐに引き返すように」と宿泊客に伝えられていたようですが、駐車場で車中泊をしていたメンバーはこうした情報が伝わっていたかどうか定かではありません。

この悪天をほんの一時的なものと判断したのか、既に吹雪になっている中で一ノ越山荘を越えて雄山へ向かっていきます。 雄山に到着した時点で既にコースタイムより大幅に時間がかかる、食欲不振で満足に食べられない、足が攣るなどのトラブルは顕在化していましたが、ここでも引き返すことなく先に進んで行ってしまいます。

そして富士の折立に着くころには先行の4人と後方でバラバラになった6人に分かれてしまいます。
ここで、熟練の登山者の二人組が彼らを追い抜き、疲労の激しい様子を見て声を掛けますが、この時点でもメンバーは状況を深刻視しておらず、救助要請を出しませんでした。

先行グループは道を間違えて引き返すなどで消耗し、全員が集合するまで稜線の吹きさらしで待機を余儀なくされたことで低体温症が進行して、身動きを取れなくなる人も続出しました。 意識を失う人が出るに及んで比較的元気なメンバー二人が最寄りの山小屋に救援要請を出しに向かいますが、吹雪に加え日没になったことで道を見失い、ビバークを余儀なくされました。 この2人が倒れているところを翌朝発見され、この時点でようやく大規模遭難が発生していることが判明します。

そして、通報を受けた山小屋の管理人が捜索に向かい倒れている8人を発見。 その時点ではまだ息のある人が数名いましたが、救助・搬送中に死亡してしまい、先に発見された2人を除く8人が死亡するという大惨事になってしまいました。

何故発生したか?

この事故では幾つかの要因が絡み合っています。

*悪天候の予報、実際に天候が悪化しつつある中、体調不良者が出始めたにもかかわらず途中で打ち切って引き返すこともなく漫然と山行を続けた

*この時期の悪天候に耐えられる装備ではなかった

*グループが分裂した際、寒風の吹き荒む中で後続を待つことで体を冷やし余計に消耗した

*救助を求めるチャンスがあったのに救助要請を出さなかった

*遭難が決定的になった後も風雪を避ける適切な場所に移動しなかった

等です。 
この時期は好天ならば日中は半袖シャツでも大丈夫なほど気温が上がることがありますが、この時は予報が出てはいたものの山小屋の人もここまで凄まじい荒れ方をするとは想定外というほどの吹雪になってしまいました。

とはいえ、彼らを追い抜いて無事に山小屋に到着したグループや、同日に道迷いをして山中を一晩中彷徨いながら救助された人もいたことからわかるように、適切な装備と体力を持った登山者なら耐えられないものではありませんでした。

また、救助要請をだしその場にとどまるにしても、稜線上の吹きさらしではなく、風下側の斜面に移動するなだけでもここまで酷い結果にならなかった可能性もあります。

この事故では経験の浅い人はとかく熟練者任せにしがちですが、大人数のグループでも非常時に適切な判断を下せる熟練者がいなければ容易に惨事につながることを示しています。

トムラウシ山遭難事故(2009年7月)

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