1. まとめトップ

【マッサン】鴨居の大将のモデルについて調べてみた

物語のキーパーソン・鴨居の大将にもモデルがいます

更新日: 2017年05月06日

7 お気に入り 142516 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

gahi_gahiさん

■マッサン・物語の重要人物

独立して”鴨居商店”を立ち上げる
今まで学んだ洋酒などの知識を生かし、ワイン事業で大成功

”やってみなはれ”が口癖で、その器の大きさにエリーも魅了される。良くも悪くもマッサンのライバル。

マッサンでは、”堤真一”さんが演じられています

@stmark_309 そうですね。そういう苦労もドラマでは鴨居の大将とマッサンを対比させながら、良く描いていると思います。最初は対立していた大将とマッサンですが、マッサンも経営者となって大将の考え.. togetter.com/li/785318#c179…

鴨居の大将の復活のさせ方が、 こんな形になるとは…………

@micchanmicimici 思い出しただけでも泣きそうです・゜・(つД`)・゜・鴨居の大将が本当堤さんでよかったと思います 本当鴨居の大将大好きです(*´∀`)

鴨居の大将、いい男や。。。そんなマッサンを優しく包み込んでくれる

マッサンの見たところまでだと、鴨居の大将が一番キャラとして気に入ってた

「わてにはお前が必要なんや!!!!!」鴨居の大将おおおおおおおおおおおお

■マッサンは実在の人物を題材にした物語、では大将のモデルは?

鴨居商店ならぬ、”鳥居商店・寿屋”の設立者
これが後の、サントリーです

1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。

マッサンも次男でしたね

13歳で大阪・道修町の薬種問屋に丁稚(でっち)奉公に出た。明治時代の薬種問屋は、薬だけでなく、ブドウ酒やウイスキーも扱う“ハイカラ”な空間だったという。

頑迷なまでの信念で難事業を成功させ、時に独裁的な自信家で楽天家と評されますが、数々の困難を乗り越え今日のサントリーの礎を築いた偉人です。
「なんでもやってみなはれ、やらなわからしまへんで」というざっくばらんな名言を残しています。

鳥居商店を起こしたのは20歳(1899年)

その後、寿屋洋酒店に改名(1906年)

この時に、ドラマの太陽ワインのモデル・赤玉ポートワインも発売されました。

日本人の口に合うことが重視されたワイン

日本初のヌードポスターを作るなど、問屋を喜ばせる営業の工夫も怠らず人気商品に押し上げた。
「美酒一代」「広告の天才」と呼ばれた鳥井氏は積極的に宣伝活動を行い、周囲の意表をついた広告を次々と採用。

商売人の才能がある人だったんですね

■マッサンと出会ったのは?

スコットランド留学から帰国した竹鶴政孝は当時勤めていた摂津酒造(ドラマ内設定は住吉酒造)を退社した後、大阪で化学教師としてウィスキー開発から離れた生活を送っていました。ウィスキー製造への野望を持ち続けていた時に手を指しので、理解者となったのが鳥井信治郎氏です。

ドラマでも、マッサンを大将は救ってくれるのかな?

1923年(大正12年)には、 本格的な国産ウイスキー生産を志します。技師長には、イギリスの醸造学の大家ム-ア博士を迎えようとしますが、博士の推薦でウイスキーの本場スコットランドキャンベルタウンでウイスキー留学の経験のある竹鶴政孝を招くことになります。

現実もマッサンに目をつけていた大将

年俸4000円という高給で迎え入れ、ウイスキーづくりの一切を政孝に任せた

それだけ、ウィスキー作りに本気だった

■日本最初のウィスキーはサントリーから

当初、政孝は、スコットランドに気候と湿度が近い北海道に蒸溜所を造ろうと考えていましたが、鳥井社長は「工場を皆さんに見てもらえないような商品は、これからは大きくなりまへん。大阪から近いところにどうしても建てたいのや」と言って譲らず、そこで選ばれた場所こそ、山崎(大阪府三島郡)でした。

大阪府島本村山崎にウイスキー蒸留所(現山崎蒸溜所)を建設し、ウィスキー生産に乗り出します。膨大な資本がかかり、熟練の腕を持つ人材が必要で、10年はまったく投資額を回収できないときては、社内では猛反対があったといいます。なお、竹鶴政孝は後に独立しニッカウィスキ-を設立します。

1929年(昭和4年)発売
現在のサントリーホワイトと「サントリーウイスキー赤札」(現在のサントリーレッド)を発売。

広告も当時にしては、かなりアツい広告

でも、当時はやはり売れ行きはすぐには良くならなかったそう

1 2