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ベトナム戦争から40年、なぜ「泥沼化した」のか?

「泥沼化した」と、一言で片付けられてしまい、「冷戦だから仕方ない」でごまかされがちなベトナム戦争。あまりよく知らないひとも多いベトナム戦争は、どのような流れで起きてしまったのでしょうか?

更新日: 2015年10月30日

palezioさん

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結局、50年以上続いたベトナム人にとっての暗黒の時代

「泥沼化した」と、一言で片付けられてしまい、「冷戦だから仕方ない」でごまかされがちなベトナム戦争。

第二次世界大戦後の権力空白地域に入り込もうとした欧米資本が引き起こした泥沼の戦争

あまりよく知らない人も多いベトナム戦争は、どのような流れで起きてしまったのでしょうか?

実はベトナム戦争は、第二次世界大戦から続く連続な戦乱の一部です。このまとめでは、第二次世界大戦から続くベトナム戦争の歴史を紐解きます。

最近映像の世紀でベトナム戦争のやつ見たばっかなのでかなり補完できた。結局反共でなく、れっきとした植民地紛争だったわけだ。:ベトナム戦争から40年、なぜ「泥沼化した」のか? - NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/214160234…

フランスの植民地だったベトナム

第二次世界から続くベトナム戦争へと続く悪夢

ベトナム戦争は太平洋戦争からほぼ途切れることなく続いた一連の戦争の一部です。

1887年から1954年まで、ベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域「インドシナ」は、太平洋戦争中は日本軍の進駐があったものの、名目上はフランスの支配下にありました。

第二次世界大戦の終盤から、インドシナは混乱し、ベトナム戦争への歩みを進めることになります。

ヒトラーに従った宗主国フランス

1940年6月に、ドイツ軍のフランス侵攻でフランスは敗北、抗戦派のポール・レノー首相に代わり、和平派が政権を獲得しました。

副首相のフィリップ・ペタンは首相となり、ドイツ・イタリアに対し、休戦を申し入れます。ナチスドイツとの和平を実現したペタンは熱狂的にフランス国民に支持されました。

親ドイツ派のペタンと、反ドイツ派のド・ゴールが「政府」を名乗る。

一方、抗戦派のド・ゴール将軍は、イギリスに逃亡し、武装組織「自由フランス」を設立しました。

自由フランスは、フランス国内の反政府活動を支援し、亡命政府を名乗りました。第二次世界大戦中、フランスのヴィシーに首都を置いたヴィシー政権と、ド・ゴールの自由フランス亡命政府が併存します。

仏印進駐

フランス国民の支持を獲得した親ナチスのヴィシー政権は、日本と協定を結んだ。

1937年の支那事変勃発以降、中華民国の蒋介石政権に対してイギリスやアメリカ合衆国などによる軍事援助が、いわゆる援蒋ルートを通じて行われていました。

日本は、援蒋ルートを遮断するよう、繰り返しフランスに申し入れていましたが拒絶されていましたが、ヴィシー政権の成立でフランスが枢軸国側についたことで、状況が一転します。

1940年6月17日には独仏休戦協定が締結されたことをうけて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。

最終的に、極東における日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらにこれにフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏印との経済関係強化を合意しました。こうして、日本軍によるインドシナ進駐が開始しました。

第二次世界大戦中の仏領インドシナ

フランスのインドシナ植民地政府が統治を続け、軍事面では日本のインドシナ駐屯軍と、フランス軍が共同警備する形式をとった。

フランス軍は大型艦艇の武装解除をされるなどしたものの、
基本的にはそのままの戦力を維持していました。

1944年にヨーロッパ大陸に連合国軍が再上陸を果たし、その後シャルル・ド・ゴール率いる自由フランスと連合国軍がフランスの大半を奪還したことで、同年8月25日にはヴィシー政権が事実上消滅しました。

フィリピンを失った日本にとって、インドシナは今や前線となった。

インドシナは日本軍にとってとても重要度が上昇しました。

フランス軍がド・ゴール側に組して、国内で武力行使を始め、連合軍との挟撃を行った場合、日本軍が不利な状況に陥る懸念がありました。

日本軍はフランス軍の武装解除とベトナムの独立を模索し始めます。

1945年、フランスのヴィシー政権が崩壊、日本の敗戦も濃厚になると、日本軍は在インドシナフランス軍の武装解除を意図する明号作戦を発動した。

明号作戦

3月9日18時、日本側の松本俊一特命大使が、米の供出に関する協定の名目でサイゴンのドクー総督を訪問。供出協定調印後、松本大使は最後通牒を提示して退去。

・フランス軍及び武装警察を全面的に日本軍の指揮下へ、交通・通信機関を日本軍の管理下に移す
・仏印全土に対し、日本の要請に全面的かつ忠実に協力すべき旨を布告する。

この2点について21時まで2時間以内の返答を要求します。このとき、フランス総督は状況を理解しました。

使者は、2時間以内に日本側に到達できず

フランスの総督は、2点の要求事項には即答できないが、交渉継続の意思がある旨を告げ、日本軍の挑発行為がない限りフランス軍は敵対行動は行わないと申し出ようとしました。しかし、使者は期限の21時までに日本側に到達できませんでした。

日本軍の夜襲は成功し、翌日にはフランス軍拠点の多くは制圧された。

サイゴンではフランス軍幹部の2/3は外出中で組織的な応戦ができず、1時間程度で駐屯地が制圧され、ドクー総督も抵抗せずに捕虜となりました。この奇襲作戦で、日本軍側は、戦死者189人、戦傷約300人をだしました。

投降したフランス軍は武装解除され、兵士のうち、フランス人将兵350余人が処刑されました。

続々と独立したインドシナ3国

日本軍は作戦開始直前、フランス保護国だったベトナム・ラオス・カンボジアの各皇帝・国王に、各国民が自由に独立を宣言してよいと連絡していた。

阮朝皇帝のバオ・ダイは、フランスとの保護条約を破棄し、チャン・チョン・キムを首班とするベトナム帝国樹立を3月11日に宣言しました。

こうしてベトナム人によるベトナムの独立が少なくとも一時的に実現したのです。

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