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白鵬が語った「天皇陛下に感謝」する理由が・・とても深かった!

32度目の優勝を飾った白鵬。優勝インタビューで「天皇陛下と大久保利通への感謝」を述べましたが、、そこには、相撲と日本の歴史との深い関係がありました!日本人として知っておきたい!

更新日: 2014年11月24日

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yuyu170823さん

■白鵬が最多タイの32度目の優勝を飾った

白鵬は4場所連続の優勝で、8年連続8度目の年間最多勝。

大相撲九州場所で、横綱白鵬は、横綱鶴竜を寄り切りで下し14勝1敗で、大鵬と並ぶ史上最多32度目の優勝を飾った。

好敵手不在の現状もあり「最低でもあと3年はやれる。(優勝)40回に届く計算だ」と北の湖理事長(元横綱)も絶賛

31度の優勝の九重親方(元横綱・千代の富士)も、白鵬の強さの秘密については「横綱で休場が一度もないのは自分の体をいじめ抜いている証拠」と基本の稽古をしっかりこなしていると分析した

■インタビューで「天皇陛下と大久保利通に感謝」とコメントした

優勝後の花道、君が代の時は目が潤んでいた。・・
2000年10月に来日。当時は体重62キロしかなかった少年が、14年の時空を経て、日本が誇る大横綱の不滅といわれた大記録に並んだ

白鵬は「この国の魂と相撲の神様が認めてくれたお陰で、この結果があると思います」と語った

「明治時代の初期。大久保利通という武士と明治天皇が(相撲という)長く続いた伝統文化を守ってくれたそうです。その中で天皇陛下に感謝したいと思います」とも語り、感謝を口にした

■「天皇陛下と大久保利通に感謝」とはどういうことなのか?・・・理由は明治維新まで遡る

大の相撲 好きで、力士隊長・伊藤博文や力士隊のメンバーらと、よく 相撲をとっていたという

幕末の武士、明治時代初期の政治家である。
西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑の1人でもある。

明治維新と文明開化に伴い、1871年東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された

「相撲禁止論」が浮上した事もある。

1871年8月、当時の政府によって断髪令が布告された。しかし、力士の髷は断髪令の例外として認められた。

その理由は、大久保利通が「大相撲だけは髷を残したい」と明治天皇に手紙を送り願い出たからだという。「伝統を大切にして力士にだけは髷を残しましょう」と。

当時の天覧相撲の画像・・・「陛下にしりを向けることのないように」という注意に従って、相撲を取ったとの事ですが、何かおかしい感じも?

自らも相撲をとることの多かった明治天皇 および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、1884年に天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができたという

あるパーティーで、白鵬は「横綱、力士に髷(まげ)があるのは誰のおかげか知っていますか」と聞かれて、その時、この明治天皇と大久保利通の話を教えられたという

日本人でも知らない事実をモンゴル人の白鵬が語ったことは、まさに驚きである

「天皇に敬意を表されたたら日本人のDNAは敵意を持てない。白鵬横綱ご立派」という声もある

■相撲の地位は低かった”不倫なもの”とまでよばれていた・・・実際にこんなエピソードも

幕末・明治の剣術家・政治家。
一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。

山岡鉄舟が、明治天皇の侍従を務めていた時に、当時の相撲の地位の低さを物語るエピソードがある

ある日、天皇が酒に酔って「山岡、相撲を一番来い!」と、いきなり山岡に組み付き、押し倒そうとしたという

その時 山岡はビクともせず。怒った天皇は、山岡の目を突いてきた。すると山岡は体をかわしたので、天皇はドッと倒れてしまった。

他の侍従たちが 山岡に「陛下が君を倒そうとなされた時に、君が倒れなかったのはよろしくない」となじったという

山岡は、「そもそも大君(天皇)が相撲ということは、この上ない不倫なこと。だから小臣は陛下が相撲をした事実を否定しなくてはならない。だから倒れるわけにはいかなかった」と突っぱねたという

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