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村上春樹の文学世界。実はジャズ喫茶「ピーター・キャット」から始まった!

千駄ヶ谷は経営していたジャズ喫茶『ピーターキャット』もあった場所で、専業作家となった記念の地。

更新日: 2017年03月01日

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goodtaste41さん

ノーベル文学賞の「本命」と言われて久しい村上春樹氏は今年(2016)も受賞を逃したが、これだけ注目されるのも、村上作品が約50カ国語に翻訳され、世界中に熱狂的なファンがいるからだ。世界の人は村上作品の何に惹かれるのか。

村上春樹 新作『騎士団長殺し』2月24日発売!

『1Q84』以来7年ぶりの複数巻にまたがる大長編、『騎士団長殺し』は、期待に違わぬ力作と言えます。なおかつこの作品の成功は、世の春樹ファンの「次回作への期待」をいっそう高めるものとなるでしょう。今回の新作で作家は、明らかに新境地を切り開いたからです。

『1Q84』から7年――、 
待ちかねた書き下ろし本格長編  

その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。 
夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。 
騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。

村上春樹がはじめて本格的に、自身の小説の現場と、それを支える文学への、世界への考えをめぐって語り尽くした、読者待望の一冊が登場する。その名も『職業としての小説家』──
世界的に高い知名度を誇りながら、これまで多く神秘のヴェールに包まれてきた<作家・村上春樹>のなりたちを、全12章のバラエティ豊かな構成で、自伝的な挿話も存分に盛り込みつつ、味わい深いユーモアとともに解き明かしていく。

初版10万部のうちの9万部を紀伊國屋書店が出版社から直接買い付け、自社の店舗や取次に流す。

村上氏は、ポストモダン文学の旗手として有名で、作品は現在、数十の外国語に翻訳・出版されている。作品の評価は高く、日本国内外に熱心な支持者がいる。

国分寺にいた頃(1973年)は、ジャズ喫茶「ピーターキャット」のオーナーであった。その場所は殿ヶ谷戸庭園の並び、「ほんやら洞」斜め向かいのビルの地下だという。そこには村上龍も客として訪れていたという。

村上龍は1976年に「限りなく透明に近いブルー」で衝撃的なデビューを果たした。翌年「ピーターキャット」が千駄ヶ谷へ移転しているのは、その衝撃の大きさと見る。

かつて、「ピーター・キャット」があった千駄ヶ谷のビル。

出発点は千駄ヶ谷の鳩森神社である。

僕は去年お夏までこの神社の隣に住んでいた。それほど大きくないが親しみのもてる神社である。地域との結びつきも強く、いわゆる「千駄ヶ谷村」というこぢんまりしたコミュニティーの中心としての機能をうまく果たしている。また、マンションラッシュの中で急速に失われていった昔ながらの千駄ヶ谷の緑をしっかり守っている場所でもある。

1978年4月1日、明治神宮野球場でプロ野球開幕戦を観戦中に小説を書くことを思い立つ。それは1回裏、ヤクルトの先頭打者のデイブ・ヒルトンが二塁打を打った瞬間のことだったという。それからはジャズ喫茶を経営する傍ら、毎晩キッチンテーブルで書き続けた。

「…僕は作家になるんだ」と悟って体がふるえた時のことを村上はありありと思い出す。早春の午後の東京だった。日差しは優しく、そよ風が吹き、焼きイカの臭いがしていた。そして、野球ファンの応援の声が聞こえていた。一九七八年四月、村上は二九歳だった。」

1978年4月1日午後1時半頃、場所は神宮球場、寝ころんでビールを飲みながら観戦していた対広島戦でヤクルトスワローズ先頭バッターのデイブ・ヒルトンがヒットを放ち二塁ベースへ到達した瞬間、「そうだ、小説を書いてみよう(才能や能力があるにせよないにせよ、とにかく自分のために何かを書いてみよう)」と思い立ち、新宿の紀伊國屋に行って安物の万年筆と原稿用紙を購入し小説を書き始める。

その当時、彼は妻の陽子と一緒に東京でジャズバーを経営していた。バーの名は「ピーターキャット」。毎晩店を閉めたあと、村上は台所のテーブルに向かって一時間か二時間書いていた。彼が英語で書きはじめた小説は『風の歌を聴け』だった。…」。

当時の店のマッチ

「ピーター・キャット」(1977年に千駄ヶ谷に移転、後に仕事をするイラストレーターの安西水丸や和田誠と出会う)を経営のかたわら、スコット・フィッツジェラルドの言葉を時に励みに『風の歌を聴け』を執筆。小説のタイトルはトルーマン・カポーティの短篇の一節「何も思うまい。ただ風にだけ心を向けよう」から名付けられる。

出典yaplog.jp

千駄ヶ谷「ピーター・キャット」の店内には長テーブルがあって、夜、一人で読書をしている女性がいた。

村上春樹さんが学生時代(1970年代始めの頃だそうです)アルバイトしていたジャズ喫茶、水道橋「SWING」のマッチ箱

1979年4月、『群像』に応募した『風の歌を聴け』が第22回群像新人文学賞を受賞。同作品は『群像』1979年6月号に掲載され、作家デビューを果たす。カート・ヴォネガット、ブローティガンらのアメリカ文学の影響を受けた文体で現代の都市生活を描いて注目を集める。

授賞式には青山のVANのバーゲンで買ったオリーブ色のコットン・スーツに色褪せたコンバースの白いスニーカーを履いて出席し、「これから何か新しい人生が始まるんだなあ」という思いに至る。受賞の賞金で猫を購入。

風の歌を聴け』に続く物語(方向性)が必要だという思いから『1973年のピンボール』を、「ちきしょう」とか「くそ」とか悪態をつきながら夜中の台所で執筆。

『1973年のピンボール』が芥川賞の候補になった影響から、他人に勧められる形で『街と、その不確かな壁』を文學界に執筆。
ただ、「小説を書きたい時に小説を書く」という村上春樹の執筆スタイルとは明らかに異なっていた為、『街と、その不確かな壁』は、本人曰く「失敗」、「後悔している」、「自己嫌悪になった」、「(この作品を)一切表に出す気はない」という形で終結。

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