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吉田松陰も坂本龍馬も除外…維新の十傑(じゅっけつ)が実はスゴイ!

幕末のスーパースター数多し。そして「維新の十傑」と呼ばれる同時代の人たちが認めた功労者たちのリストがあります。そこには吉田松陰も坂本龍馬もいない代わりに「誰?」と言いたくなる人が幾人か…。忘れられた「真の偉人」がいた、ということでもあります。

更新日: 2015年12月15日

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futoshi111さん

◆維新の十傑(じゅっけつ)とは?
◆新たな「維新の十傑」
◆坂本龍馬は入っていない
◆明治維新で忘れてはならない人物


1853年の黒船来航から「幕末」が始まった…

◆維新の十傑(じゅっけつ)とは?

西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・
江藤新平・横井小楠・大村益次郎・
小松帯刀・前原一誠・広沢真臣・
岩倉具視


1884年は明治維新の6年後

1884年3月刊、山脇之人『維新元勲十傑論』において、倒幕・明治維新に尽力した、志士のうち幕臣以外の10人を指す

1.西郷隆盛

文政10年12月7日(1828年1月23日)
~明治10年(1877年)9月24日)
薩摩国鹿児島城下加治屋町出身

通称は吉之介(きちのすけ)
西郷従道は弟、大山巌は従弟にあたる

薩摩藩の武士・明治政府参議・大日本帝国陸軍大将
明治維新の元勲


西郷隆盛名言集:
http://iyashitour.com/archives/21556#page1

日本史上屈指の政治家の一人

当初は幕府側の立場で長州征伐などに従事していたが、後に倒幕へと舵を切った。宿敵・長州と薩長連合を取り結び、勝海舟とともに江戸城無血開城を実現、王政復古を成し遂げる。

明治政府では参議・陸軍大将などの要職を務めるが、征韓論を巡る意見の相違から下野。徐々に増えつつある不平士族の反乱の首領に推戴され、西南戦争を経たのち、自刃。

平和になった直後に、生業を失った兵士たちが反乱を起こすのは世界の常識で、古今の歴史に枚挙に暇がない。これを積極的に潰すために西郷が命をなげうったといえる。西南戦争の終結によって日本は近世の封建制度に決別することができたとも言える。

坂本竜馬は西郷を「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と表現した

2.大久保利通

文政13年8月10日(1830年9月26日)
~明治11年(1878年)5月14日
鹿児島県 鹿児島市 出身
通称は一蔵(いちぞう)

薩摩藩の武士・明治維新の元勲

明治政府発足後は初代内務卿として実質的な日本の最高権力者となり辣腕をふるった

西郷隆盛とは少年時代から親交があった




牧野伸顕(戦前の大臣を歴任)は次男
麻生太郎(元内閣総理大臣)は玄孫
武見敬三(元厚生労働副大臣)は玄孫

維新後の政府に大ナタを振るった

当初、公家の岩倉具視らとともに公武合体路線を推進。長州征伐に反対するなどしつつ四侯会議などを画策、のちに武力倒幕へ路線変更。薩長同盟・薩長芸三藩盟約締結にまい進し倒幕運動の基礎固めを行った。

明治政府発足後は版籍奉還・廃藩置県を断行、欧米への視察などを積極的にこなし大蔵卿・内務卿を歴任し「富国強兵」を強力に推し進める。西郷の死の翌年、不平士族によって暗殺される。

金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた

家庭を大事にしており、出勤前には娘さんを抱っこしてから出かけたり、毎週土曜日は家族揃って夕食を摂るなど、微笑ましいエピソードが伝わっています

3.木戸孝允(桂小五郎)

天保4年6月26日(1833年8月11日)
~ 明治10年(1877年)5月26日)
長門国 萩城下呉服町(現在の山口県萩市呉服町)出身

長州藩の武士・明治政府の元勲


江戸三大道場の一つ「練兵館」に入門一年目で塾頭となり免許皆伝、という剣豪でもある



写真は京都・河原町御池にある銅像

日本の近代化の必要性を最も感じていた人物

長州藩の尊王攘夷派の中心的存在として頭角をあらわす。京都に潜伏し幾度も暗殺の標的とされながらも生き延び、明治政府では封建的制度の撤廃と近代的な諸制度の整備が急務なことを訴え続けた。

伊藤博文は、大久保と木戸の比較論として「木戸公は(中略)忍耐の力は大久保公に一歩を譲っておった。その代わり識力の方は大久保公も一歩を譲っておった。」と評し、岩倉を加えた三人をして「岩倉、木戸、大久保三公はとにかく度量といい決断といい胆力といい時流に卓絶しておった。我輩の先輩として見る所では彼の三人には一人も及ぶものはない」と最大級の評価をしている

< 以上の三人を特に「維新の三傑」と呼ぶ >

本名:小松清廉(こまつ きよかど)
天保6年10月14日(1835年12月3日)
~明治3年7月20日(1870年8月16日)

薩摩藩の武士・明治政府の総裁局顧問、徴士参与や外国事務掛、外国官副知官事などを務める

薩長同盟は小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された

「薩摩の小松か、小松の薩摩か」と志士たちに噂されるほどの活躍ぶりで、西郷隆盛や大久保利通などが自由に動き回れるよう、人望の篤い小松帯刀が藩主と彼らとのパイプ役を果たしました

文政8年5月3日(1824年5月30日)
~明治2年11月5日(1869年12月7日)
長州藩の医師・西洋学者・兵学者


長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮、勝利に導いた天才兵学者

1869年、元長州藩士に襲われ死去

事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされる

本姓は佐世氏
天保5年3月20日(1834年4月28日)
~明治9年(1876年)12月3日
長州藩士

松下村塾に学ぶ


倒幕運動に活躍したが、維新後の1876年に不平士族の反乱「萩の乱」を主導し、処刑された。

松陰先生は彼をこう評しています。
「その才は久坂に及ばない、その識は高杉に及ばない。
けれども、人物完全なることは両名もまた佐世に及ばない。」 
「勇あり、智あり、誠実人に過ぐる」

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