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「軍師官兵衛」最終回直前に的場浩司が登場!演じた『吉弘統幸』ってどんな武将?

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」はいよいよ次回で最終回。この終盤に来て俳優の的場浩司さんが12月7日放送「除水最後の勝負」の回で6年ぶりに大河ドラマに出演。役を演じた『吉弘統幸』ってどんな武将?

更新日: 2015年01月30日

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justastarterさん

◆俳優の的場浩司さん(45)がNHK「軍師官兵衛」で6年ぶりに大河ドラマに出演!

的場は1992年の「信長KING OF ZIPANGU」で大河初出演。今回は2008年の「篤姫」以来、5作目の大河出演となり「撮影現場は大変気持ち良く楽しかったです」と充実感をにじませた。

日本の俳優。本名同じ。埼玉県上尾市出身。血液型はA型。趣味は、スイーツ・自動車・バイク・身体を動かすこと・スキューバダイビング。家族は妻、長女、長男。

トラック運転手をしていた18歳の時に天才・たけしの元気が出るテレビ!!の草野球コーナーに出演。1989年の映画『首都高速トライアル』で本格的にデビューを果たし、同年のテレビドラマ『はいすくーる落書』『ママハハ・ブギ』でその名は全国区となる。
テレビドラマや映画を中心に個性的且つ確かな演技を見せ幅広い層から人気を獲得している。また、強面な外見とは裏腹に大の甘党であり、最近はそのスイーツマニアぶりが知られるところである。

7日放送の「如水最後の勝負」では、V6・岡田准一(34)演じる如水(黒田官兵衛)の精鋭部隊、黒田二十四騎の井上九郎右衛門(高橋一生=33)と対決する九州・豊後国の猛将、吉弘統幸(よしひろ・むねゆき)役で出演。

最終回「乱世ここに終わる」は衆院選の影響で21日に延期されるが、的場は「戦国乱世、悲しくも素晴らしい男たちの時代を最後まで楽しんでほしい」とアピールした。

◆的場さんが演じた「吉弘統幸(よしひろ・むねゆき)」ってどんな武将なの?

吉弘 統幸(よしひろ むねゆき)は。安土桃山時代の武将。大友氏の家臣。はじめ統運(むねつら)、後に統幸。左近大夫、左近入道、嘉兵衛尉(かひょうえのじょう)とも称した。

時代:安土桃山時代
生誕:永禄6年(1563年)
死没:慶長5年9月13日(1600年10月19日)
墓所:豊後高田市の金宗院跡、別府市の吉弘神社
主君:大友義統→立花宗茂→大友義統
氏族:吉弘氏
父母:父:吉弘鎮信
兄弟:統幸、茂吉、田北統員、統貞
子:政宣、統吉、筑紫大膳

豊後国の戦国大名・大友氏の家臣で屋山城城主・吉弘鎮信の子として誕生。幼名は松市太郎。はじめ統運と名乗り、天正11年(1583年)に統幸と改めた。

衰退する大友義統氏の勢力挽回を目指し忠誠を尽くす。

大友 義統は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。
1576(天正4)年に当主となった義統だったが、実権は父の宗麟が掌握していたため、父との対立が表面化。義統は秀吉に忠誠を誓って豊後一国を安堵(あんど)されている。義統は秀吉から一字をもらって以降は「吉統」と名乗った。

天正20年(1592年)に参陣した文禄の役(朝鮮出兵)での主君・義統の失態により大友氏は改易。

文禄の役にも従軍して朝鮮に渡った。ところが、明の大軍に囲まれた小西行長の援軍要請に対し、行長が戦死したという誤報を信じ込んで撤退。しかし、行長は死んでいなかったので、援軍要請を無視して戦場を放棄した形となった義統に対して秀吉が激怒、改易処分となった。

◆後に戦うこととなる黒田除水の家臣「井上九郎右衛門(いのうえくろうえもん)」に居候していた時代も。

統幸は豊前国中津の黒田如水に招かれた。

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。嫡子は福岡藩初代藩主黒田長政。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
慶長5年10月の吉川広家に宛てた手紙で「関ヶ原の戦いがもう1か月も続いていれば、中国地方にも攻め込んで、華々しい戦いをするつもりであったが、家康勝利が早々と確定したため何もできなかった。」とある。今日の野心家・如水のイメージはここからきていると思われる。

出典senjp.com

井上 之房(いのうえ ゆきふさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣で、黒田二十四騎、黒田八虎の一人。井上之正(ゆきまさ)の子。主な通称は九郎右衛門(くろうえもん)。
天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重により有岡城に幽閉された際には、栗山利安・母里友信と共に有岡城下に潜伏し、孝高の安否を探っている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際には孝高と共に豊前国中津におり、石垣原の戦いでは大友氏の家臣・吉弘統幸を討つ武功を挙げた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、仕えていた従兄弟である柳川城主・立花宗茂は西軍につくことを表明。統幸は大友家当主・大友義乗が徳川家に仕えていたため、大友家の旧恩に酬いようと立花家を暇請いし、義乗の元へ向う。

その道中に大友家の再興を狙う前当主・義統と再会し、義乗のこともあり義統に東軍加担を進言するが、義統は聞き入れず西軍に加担したため、統幸もこれに従った。

◆そして「九州の関ヶ原」と評される「石垣原の戦い」に参戦。

豊後国奪還を図って義統が豊後に攻め込んだ際、細川家の松井康之が守る杵築城を攻め、二の丸まで落とすも黒田軍の援軍が近づいてきたため攻略を断念。黒田如水の軍勢と豊後・石垣原で激突した(石垣原の戦い)。

石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日に豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で行なわれた黒田如水(孝高)軍と大友義統(吉統)軍の合戦である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

統幸は釣り野伏せ戦術を使って鉄砲隊の攻勢で黒田軍の先鋒隊を大損害に与えた。

得意の槍を振るって奮戦。緒戦で母里友信の率いる先鋒隊を破り、小田九朗左衛門等30~40人を自ら討ち取ったとされるほどの獅子奮迅の活躍をし、一時は数の上でこそ大友勢を上回っていた黒田勢を相手に優位に戦を進めた。

母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛・多兵衛(たへえ、たひょうえ)、幼名は万助。但馬守を称す。
槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。

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