1. まとめトップ

この記事は私がまとめました

mototchenさん

明治時代の日本の馬のいる風景に注目

江戸時代 明治時代の山

日本は古代から大量の森林伐採をしてきていた!

森林が増えたのは最近のこと 江戸から明治の里山は はげ山

森林が増えたのは近年のことだそうですね。本の巻頭にある口絵は衝撃的でした。歌川広重の「東海道五十三次」に描かれている江戸時代の風景には木がまばらにしか生えていない。明治時代の写真(下)にも、ほとんど木はない。かつての日本は、「森林飽和」とはほど遠いイメージです。

江戸時代からぎりぎりのレベルで保ってきたけれど、明治になると農業だけではなく、製糸産業などいろいろ産業が始まるわけです。ところが、まだ石炭を大々的に使うようになっておらず、主な燃料は依然として木だった。それから、開発が進んで家もたくさん建てるし、工場も建てる。しかも、鉄道なども普及し始めて、より遠くから木材を集めやすくなってくる。一番ひどかったのは、明治30(1897)年ぐらいではないかと推定しています。

 明治30年代に日露戦争がありました。実際に日露戦争が終わった明治44年になって、本格的な治水事業が始まった。土砂崩れや洪水の氾濫を防ぐために、山腹の斜面に木を植えて、はげ山を緑化していったのです。そこで日本の森林は下げ止まりました。

日本の砂浜が消えていっていることはよく知られていますが、そもそもは森林が豊かになって山崩れがなくなり、土砂が河川に流出しなくなったからだろうとのこと。戦前は海岸の飛砂で家が埋まるほど砂にあふれていたんだそうです。最近、大雨というと深層崩壊が目立つのも、森林が広がって表層崩壊が起こらなくなり、河川も氾濫しにくくなったということのようです。

里山というと私は田園の周りに広がる緑豊かな森林を思い浮かべてしまうのですが、実際には荒れ地、草山、禿げ山だったのだそうです。1900年頃の写真がいくつも載っていますが、山に木がありません。浮世絵では山や道に木がぽつんと生えている風景が描かれていますが、絵画表現として他の木々が省略されているわけではなく、そういう何もない風景が広がっていたとのこと。茶色(地肌)や黄緑(草・低木)ののっぺりした山だったのですね。当時、燃料になるのは木だけですから、どんどん伐採されてしまいます。

今からは想像できない100年前の日本の森林

 我が国のいわゆるはげ山などの荒れ地(以下「荒廃地」ともいう)は、「アトラス・日本列島の環境変化」(文部省科学研究費による調査の報告)*1によれば、1850年には約440万haあったとされている。これは、現在の我が国の水田面積合計よりも大きな数値である。1900年当時でも荒れ地の面積は約418万haに及び、この面積は、岩手県(153万ha)、福島県(138万ha)、新潟県(126万ha)を合わせた県土面積に匹敵する大きさである。

南方熊楠が守ろうとした鎮守の森は森の全てだった!!

画面中央から左にかけてこんもりとした森がある。
これが鎮守の森だ…

鎮守の森を守るというところで若干の違和感を持っていた。
山のふもとにある鎮守の森なんて、山全体の森に比べれば小さなものではないかという感覚だ…

左の方の鎮守の森以外は木が生えていないのではないだろうか。
右の稜線を見ると生えているようにも見えるが、頂上にある1本の木と比べると、それはせいぜい低い灌木か草藪と思われる。

マンガ家青木萌が言っていることを裏づけているなと思った。
南方熊楠の時代、森といえば鎮守の森ぐらいしか残っていなかったのではないだろうか。
その最後の自然の砦である鎮守の森を神社合祀令で壊されようとした。
だから熊楠は反対運動に立ち上がった。

平清盛以来の先進的港町として明治、大正と発展を遂げる神戸だが、神戸の背後に控える六甲山は、明治中頃は意外にもハゲ山だった。
遠く、豊臣秀吉の時代に、大坂城の石垣普請に、六甲山より大量の御影石を掘り出し、「伐採勝手たるべし」のお触れが出て、それ以来、山が荒れたとの説があるが、やはり、明治以降の急激な開発でハゲ山になったものと思われる。

当時のはげ山の状況

1 2