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【400年の因縁】浄土真宗 東本願寺、西本願寺どう違うの?歴史的背景、教義について

浄土真宗の東本願寺と西本願寺の違いについて。どこが違うのか歴史的背景や仏具などの相違点を紹介しております。開祖は両派とも親鸞聖人ですが、歴史に翻弄され12代目から東西に分裂しています。ちなみに両派とも仲が悪いわけではないことを書き添えておきます。

更新日: 2017年02月07日

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ご存知のように本願寺は東西に分かれていますが、どうしてこうなったかというお話。
 
 まず基本的に、西本願寺は豊臣秀吉が創りました。そして東本願寺を創ったのは徳川家康です。

西本願寺、東本願寺というのは
いわゆる通称です。

東西分裂の歴史

戦国時代、石山合戦で一向宗(本願寺派)の本山である石山本願寺(現在の大阪城がある場所にあった)が、武装解除に応じたことで、一向宗は石山本願寺から追われます。

秀吉の治世になり、本願寺派は京都の烏丸で本願寺の再興を許されます。
その後、家康の宗教政策によって、当時、本願寺内で分裂状態が起きていたことを利用し、

教如を門主とし、本願寺のすぐ東の土地を与えられ本願寺を分立したのが真宗大谷派の始まりです。
この本願寺の立地関係から、西と東という通称が付けられるようになったのです。

慶長7年(1602年)、教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進され、東本願寺が分立する。このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。

天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去する。しかし教如は徹底抗戦を主張する。そのため顕如は、教如を義絶する。

wikipediaより

石山合戦での徹底抗戦がのちに教団内の分裂を招く

初代の親鸞から十一代の門主 「顕如(けんにょ)」までは東西本願寺は同じ宗派でしたが
西の十二代目が「准如(じゅんにょ)」、東の十二代目が「教如(きょうにょ)」と
分裂してしまいます。

信長が、どの大名よりも本願寺に手を焼いた事を踏まえて、「家康がその勢力を分断する為に東西に分けた」と考えられます。

お互いの教義について

教義の原点はまったく同じです、なぜなら相続争いで別れる前、つ
まり十一代目までは同じなのですから。
ただ、分かれてからは、作法や声明、仏具や荘厳はそれぞれ違う
流れになって行きます。

では違いは何なのか紹介していきたいと思います。

ご本尊の形が微妙に違う

後光の下に舟後光という部分があるのが西

出典buyee.jp

舟後光がないのが東

ご本尊を掛け軸にした場合、後光の本数が異なります。

後光の数が東西で異なります
本願寺派の阿弥陀如来が8本
大谷派の阿弥陀如来が6本になります。

お仏壇の荘厳に使う仏具が違う

両派の違いは、お内仏(仏壇)の荘厳(おかざり)のしかたを見れば一目瞭然。亀の背中に乗った鶴が口にれんじく蓮軸をくわえた姿のつるかめ鶴亀しょくだい燭台(ろうそく立)があれば大谷派。これに対して本願寺派では、銅に漆塗りのせんとくせい宣徳製の燭台が用いられる。

五具足と呼ばれるものです。
華鋲など他にも本願寺派は黒っぽい色合いを使いますが大谷派では金色の仏具を使います。

本願寺派とは異なり金色の鶴亀の蝋燭立てが
特徴的です。

他にはりん台の形や輪灯の形が東西で異なります。

左が西用、右が東用です。

仏具を並べるお仏壇も西は柱が
金箔で加工してあるのに対し
東は黒塗りになっています。
※ちょうど仏壇の柱の色と仏具の色が逆になるわけです。

厳密にいうと屋根の形が西は一重、東は二重に
なっています。

一番困る点、お経(正信偈)の読み方は同じですが、【音程】が違う

「南無阿弥陀仏」が本願寺派では「なもあみだぶつ」に対して大谷派では「なむあみだぶつ」と唱えます。

細かいところでは

おふみ【御文】

蓮如(れんにょ)が浄土真宗の教義を説いて門徒に与えた書簡80通を選んで編集したもの。本願寺派では御文章(ごぶんしょう)といい大谷派では御文(おふみ)という

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butsujicodenightさん

自分の身近で起こったことや疑問に思ったことを中心に書いていきたいと思います。ちょっと前まで東海地方、現在東京都千葉の県境の僻地在住です。

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