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真田幸村の伝説・逸話

真田幸村の伝説・逸話

更新日: 2015年01月04日

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GOLDSANSOXさん

真田幸村

真田 幸村(さなだ ゆきむら)とは江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。「第一次上田合戦」(真田信繁はこの戦いに参加した証拠が無く、上杉家に人質として入っていた可能性が高い)、「関ヶ原の戦い」の前哨戦である「第二次上田合戦」で、真田十勇士等の忍者軍団を使い大活躍し、その後「大坂の役」でも奮戦するが、大坂夏の陣で力尽き討死する。

真田幸村と言えば六文銭と赤備えがかっこいい

本当の名前は信繁

「幸」は真田家の通字であり。

「村」は徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来するとの説がある。

父が昌幸・祖父が幸隆なので、幸村の方がしっくりきます。

真田十勇士

真田十勇士は、真田幸村に仕えたとされる、10人の家臣のこと。

猿飛佐助   十勇士の筆頭で忍者
霧隠才蔵   甲賀出身の忍者
穴山小助   信玄の弟、穴山梅雪の甥で幸村の影武者
三好清海入道 鉄の棒を振り回す怪力の僧侶
三好伊三入道 清海の弟
由利鎌之助  鎖鎌の名人
筧十蔵    鉄砲の名手
海野六郎   真田家の古くから使える参謀
根津甚八   幸村の影武者
望月六郎   幸村の影武者

関ヶ原の合戦

徳川軍主力といえる秀忠率いる3万5千の兵は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸(幸村の父)と幸村は居城上田城に籠り、秀忠の大軍を城に立て籠もって迎え撃った(第二次上田合戦)。少数の真田隊に手こずった秀忠勢は家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去った。

「諦めて去った」ですからね。大軍だったのに、結局倒せなかったってのが…

大阪夏の陣

真田軍は越前松平勢を突破し、家康の本陣まで攻め込み、屈強で鳴らす家康旗本勢を散々に蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目と言われ、真田軍の凄まじさに家康は自害を覚悟したほどだったという)。

一番有名な話ですね。

奥州・伊達家自慢の騎馬鉄砲隊を、長柄槍隊を地面に伏せながら闘う戦法で撃滅(道明寺の戦い)。これら度々の勝ち戦により、次第に徳川軍も真田軍への攻撃を自重せざるを得なくなり、信繁はそれを見て堂々と大坂城に一時撤収した。その撤収の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。

伊達の騎馬鉄砲隊に、こんな倒し方があったとわ

最終的には数で勝る徳川軍の前に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、越前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門にその首を授けた。

最強、幸村も力付き、倒れる…

六文銭

旗印である六文銭は、六道銭を表しているといわれている。六道銭とは、亡くなった人を葬る時、棺に入れる六文の銭の事で、三途の川の渡し賃のことである。これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれている。

六文持っていれば、三途の川を渡れるから、死ぬ事を恐れなかったんでしょう

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