1. まとめトップ

松永久秀の伝説・逸話

松永久秀、裏切り過ぎ

更新日: 2015年01月04日

7 お気に入り 50790 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

GOLDSANSOXさん

【松永久秀】

斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄

茶人としても有名で、その最期において茶道具『平蜘蛛』と共に爆死

戦国きっての大悪人にして数寄者の茶人が松永久秀。彼の行いは個性的で逸話だらけ。生まれも育ちも謎ながら、一時は、近畿一番の実力者になり上がった後に愛蔵した平蜘蛛の釜とともに壮絶な死を遂げる。

戦国時代で爆死って他に聞いたことない

【三大悪事】

•主家の三好を滅ぼした

•足利将軍家の十三代「義輝」を殺したこと

•東大寺の大仏を焼いたこと

織田信長は通説では家臣に対して厳しい人物と言われるが、久秀への対応は甘かった。3度目の反逆でも茶釜「平蜘蛛」と引き換えに助命を考えていた節があり、信長が一目置く武将であったとの見方もある。また、信長が語った久秀の(三好家乗っ取り・永禄の変・東大寺大仏殿焼き討ち)に対し、信長自身も、主君に当たる織田大和守家の当主であった織田信友を討滅し、将軍であった足利義昭を追放し、比叡山焼き討ちを敢行する等、久秀とまったく同じような所業を成しているため、似た者同士、親近感を抱いていたのではないかという説もある。信長は義昭を擁して上洛した際、義昭は兄の義輝暗殺の首謀者として誅殺するように命じたが信長は久秀を庇って助命に持ち込んだ。武田信玄の西上作戦で反逆した際も信長は所領の没収だけで許した。信長が反逆して許しているのは家督相続時に離反した柴田勝家(ただし勝家は1度)の他は久秀だけしかおらず、しかも久秀のように2度も許して3度目も許そうと使者を送った例は他に無い。

【主君の妻を奪う】

久秀は主君の三好長慶が亡くなる直前、長慶の妻・左京大夫局を奪って自分のものとした。

三好長慶…織田信長に先行する「最初の戦国天下人」とも呼ばれる存在だが、現代での評価は芳しくなく、重臣松永久秀と共に「下剋上をした悪党」として酷評されたり、「重臣松永久秀の専横、壟断を許した凡庸な大名」と評されている。

左京大夫とは三好義継のこと、すると左京大夫局とは義継の母かという想像が出てくるのですが、義継は長慶の養子なので、左京大夫局は長慶の妻であるはずはない。

【果心居士】

果心居士の使った妖術に恐れる

果心居士(かしんこじ、生没年不詳)とは、室町時代末期に登場した幻術師。七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある。

多聞山城にいた頃、かつて三好長慶や織田信長などの歴代の権力者を幻術で手玉に取った仙人果心居士を招き、「自分は戦場でも一度も恐怖を味わった事がない、そなたの術でわしを恐怖させてみよ」と豪語した。果心居士はこれに応じ、部屋の明かりを消し、人払いをさせた後、自身の姿を一人の女人の幽霊に姿を変えて久秀に近づいたという。外ではにわかに稲妻が走り、雷雨が落ちると久秀の顔も恐怖のあまり蒼白し、「分かった、もうやめよ」と声をあげた。実は、この女人の幽霊は久秀の妻(故人)であり、幽霊が消えたあとも、久秀の震えは止まらなかったという。

【キリシタン大名】

松永久秀が、三好三人衆らと争っていた際、日本で最初にクリスマスを理由に休戦を命じた。

松永久秀が、三好三人衆らと争っていた永禄8年(1565年)または永禄9年(1566年)ごろ、日本で最初に降誕祭(クリスマス)を理由に休戦を命じた(あるいは応じた)というエピソードが巷間に広く伝えられているが、そのような事実を示す文書は存在しない。この話の元となったのは、フロイス日本史の記述である。それによれば、単に、松永方に属する兵と三好三人衆方に属する兵のキリシタン計70名が共に仲良くミサに行ってパーティーを開いたという内容でしかない。

【織田信長への謀反】

信長を裏切るが、許される

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。

元亀3年(1572年)、ついに久秀は信長に対する叛意を明らかにし、義継・三人衆らと組んで信長に謀反を起こした。しかし翌元亀4年(1573年、天正に改元)4月、包囲網の有力な一角である信玄が西上作戦中に病死し、武田氏は撤兵。7月に義昭が信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、11月に義継も信長の部将佐久間信盛に攻められ敗死(若江城の戦い)、12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏した。三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解した。翌天正2年(1574年)1月には岐阜に来て信長に謁見、筒井順慶も信長に服属している。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。

【平蜘蛛と爆死】

信長を裏切り、最後は茶道具と一緒に爆死

平蜘蛛。蜘蛛が這いつくばっているような形をしていたことから、「平蜘蛛釜」の名が付けられた。

天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという。信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させ、所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命じる。それに対して久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは、信長公にお目にかけようとは思わぬ。粉々に打ち壊すことにする」と返答した。このため、信長のもとに差し出していた2人の孫は京都六条河原で処刑された。織田軍の総攻撃が始まると平蜘蛛を天守で叩き割り(一説には茶釜に爆薬を仕込んでの自爆)、10月10日に爆死した。享年68。

1 2