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「軍師官兵衛」以降に黒田長政が描かせた「大坂夏の陣図屏風」が色々興味深い。

「軍師官兵衛」は主人公・官兵衛の息子、黒田長政の物語としても楽しめました。さらに、長政はドラマ以降に興味深い行動をしていました。

更新日: 2018年04月26日

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moruzibu21さん

官兵衛の死後の大坂夏の陣までを描いた「軍師官兵衛」。

大坂の陣(おおさかのじん)は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の総称。

江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした戦いである。大坂の役(おおさかのえき)とも称する。

この戦いを境に戦国時代より続いた大規模な戦闘が終焉した。

軍師官兵衛で如水が亡くなった後の大坂夏の陣まで描いたのは、乱世が終わったことを表現するためだったのかな?如水が亡くなっているからおまけ的な感じではあったけど。でも平清盛もナレーションだけど室町幕府のことまで話がいっていたなーと思い出す2年前。

官兵衛。 きれいな最後で満足です。 大坂夏の陣まですることによって、大殿の願いがかなって終わりで、清々しく思える。

ここまでの「黒田官兵衛」がまあまあ良かっただけに、最終回はイマイチやった。せっかく大坂夏の陣という、かつて遣えた豊臣の滅亡というオイシイネタがあるのに。妻が亡き官兵衛を偲んで、「完」って……。あの映画「タイタニック」のラストシーンのような「平清盛」の方がよっぽどよかったのに。

乱世が終わるのを見届けた、官兵衛の息子の黒田長政。

戦国武将、軍師黒田孝高(官兵衛・如水)の長男。

九州征伐の功績で豊前中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前名島に52万3,000石の大封を受け、福岡藩を立藩。初代藩主になった。

藩主となって以降、数々の福岡博多の産業を奨励し博多人形や博多織、高取焼など伝統工芸の復興に力を入れ、現在に至るまで福岡の名産品となる。

父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

画像は「軍師官兵衛」で黒田長政を演じた松坂桃李。

官兵衛は松寿丸しかり長政の成長物語だった…最終話にして初めて直々に褒めたんじゃないの(;ω;)

なんかNHK官兵衛の長政ちゃんどうにもタヌキの掌の上で転がされてる感あるけどちゃんと自分で主君選んで最高の働きしてるんだよなぁ だからこそ家康に如水にも親を超えたって言われてるわけだし

その長政が遺したのが「大坂夏の陣図屏風」。

豊臣時代の大阪城を知るための貴重な資料になっている。

黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたものです。現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされています。

描かれているのは、人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺。それが極めて精緻に描かれています。

珍しい特徴がある。

右隻と左隻で戦国合戦の光と陰(かげ)を見事に描き分けた大坂夏の陣図屏風は戦国合戦図屏風の白眉(はくび)といわれ

右隻(うせき)は、慶長20(1615)年5月7日に行われた大坂夏の陣最後の決戦の開戦直後の様子が描かれ

第一扇(せん)上部に2代将軍徳川秀忠の本陣、中ほどに大御所(おおごしょ)徳川家康の本陣がある。

その前方に藤堂高虎、伊達政宗、松平忠輝ら徳川方の大軍が布陣し

さらにその前方では前田利常、井伊直孝、松平忠直らの諸隊が既に鉄砲を放ち、槍を合わせ、豊臣方先鋒との戦闘を開始している。

左隻(させき)には落城後の悲惨な光景が生々しく描かれる。

淀川、長柄(ながら)川(中津川)、神崎川を越え、北へ、北へと逃れようとする敗残兵や避難民。

彼らに襲いかかる野盗の群れ。そこには阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄図が展開する。

他の合戦図屏風と異なるのは、武将同士によるによる合戦の様子だけでなく、戦いに巻き込まれた一般市民の悲惨な状況や、殺戮を繰り返す雑兵の姿が描かれているのです。

左半分には、乱妨取りに奔った徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり、偽首を取る様子や略奪を働き身包みを剥がすところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景、そして女性を手篭めにする様子などが詳細に描かれている。

戦いで被害を受ける庶民の姿が描かれている。

画面左下では、泣きじゃくる若い娘を東軍の兵士が連れていこうとしています。その右は母親でしょうか、観念した様子で、娘を慰めています。

画面左下方では、荷物を持ち、乳飲み子を抱え、子供を背負った避難民が左方向へ逃げ、そこに兵士が追いすがります。

右上では兵士が男を捕まえています。荷物を奪おうとしてるのか、あるいは「にせ首」を狙ったのか。

兵士に取り囲まれた若い娘。

城内から逃げ出した女人たちが小舟で川を渡ろうとするが、逃走兵が群がり小舟が転覆する惨状が描かれています。

神崎川を渡って北に逃げた避難民を待ち受けるのは、野盗の一団です。太刀や長刀を振りかざして、身ぐるみを剥がし(画面右端)、あるいは荷物を奪い、人を捕らえています。画面中央の上にふんぞり返っている男が、野盗のリーダでしょうか。その前には「戦利品」が積まれています。

「江戸初期の村人にとっても、戦争は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(1614)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到しはじめていた。」(『新版 雑兵たちの戦場』。No.33「日本史と奴隷狩り」参照)。大坂の陣は野盗・盗賊の「出稼ぎ」の場でもあったようです。

NHKの歴史番組「その時歴史が動いた」で、 戦国のゲルニカと呼んだことも。

出典ameblo.jp

パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画。

1937年4月26日に、スペイン・ビスカヤ県のゲルニカへのナチスドイツによる世界初の都市無差別爆撃がを主題としている。

反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。

「大坂夏の陣図屏風を評して、戦争に巻き込まれた非戦闘員の悲惨な姿を描き、戦争を告発した。」というような意見があります。この屏風を「戦国のゲルニカ」だとする表現は、このような見方からきています。

描かせた長政の意図は?

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