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『オズの魔法使(1939)』主演ジュディ・ガーランドの人生が波瀾万丈すぎる

世界初のカラー映画として上映された『オズの魔法使(1939)』のドロシー役として有名なジュディ・ガーランドJudy Garland。娘は女優のライザ・ミネリ。MGMミュージカル映画の黄金期のスクリーンを彩った女優ですが、華やかな女優人生の影には壮絶な生きざまがありました。

更新日: 2014年12月27日

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nyny1121さん

ジュディ・ガーランドJudy Garlandとは

1922年6月10日 - 1969年6月22日。アメリカ合衆国の女優、歌手。
女優のライザ・ミネリは、2度目の夫、ヴィンセント・ミネリとの子。同じく女優のローナ・ラフトは、3度目の夫であるシドニー・ラフト(Sidney Luft)との子。生涯5回結婚している。
1969年に睡眠薬の過剰服用により死亡した。
ミネソタ州出身。本名はフランシス・エセル・ガム。父親がボードビリアン、母親がピアニストの家庭で3人姉妹の末っ子として生まれる。

子役としてキャリアをスタート

1929年、2人の姉と共にガム・シスターズの一人としてデビュー。
1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約。
写真右端がジュディ。

MGMとの専属契約の裏で

1935年に大手映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と専属契約。
契約時、ディアナ・ダービンかジュディかどちらか一方と契約を結ぶことになっていた。
社長のルイス・メイヤーはディアナと契約しろという意味で「デブの方(ジュディ)を追い出せ」とプロデューサーのアーサー・フリードに命じた。
ところが、キャスティング・カウチ(セックスをした相手に役や契約を回すこと)で悪名高かったフリードは、当時13歳のジュディと性的関係をもっていたため、間違ったふりをして、ディアナではなくジュディと契約を結んだ。

契約後、MGMはかなり肥満気味の13歳のジュディに極度のダイエットを命じた。
13歳にしてダイエット用の薬として覚醒剤(アンフェタミン)を常用するようになる。
『オズの魔法使』を含む、すべてのMGMミュージカルでジュディは元気一杯で歌い踊っているように見えるが、実は覚醒剤の使用により「ハイ」の状態で歌っていた。

『オズの魔法使』ドロシー役で大ブレイク

1939年にミュージカル『オズの魔法使』で、大ブレイクする。
この役でアカデミー子役賞(Academy Juvenile Award)を受賞する。
結果『オズの魔法使』はジュディの才能を大々的に世に知らしめるものとなった。

その後、キャリアはうなぎ上り

それ以降、仕事面ではミッキー・ルーニーとコンビを組んだ裏庭ミュージカルシリーズ、『若草の頃』、『ハーヴェイ・ガールズ』、『イースター・パレード』といったMGM映画の大作に次々と主演するようになり、全盛期を迎える。

『若草の頃』(1944)のジュディ。
女優として歌手としてまさに全盛期と言える。
ちなみにこの作品の監督、ヴィンセント・ミネリは2人目の夫であり、彼との娘が女優のライザ・ミネリ。

しかし、過密スケジュールの影で

あまりにも人気が出たため、彼女のスケジュールは過密となってしまい、『オズの魔法使』の公開直後から覚醒剤(アンフェタミン)に加えて睡眠薬(セコナル)を常用するようになる。
当時は睡眠薬も覚醒剤も害が十分に分かっておらず、MGMはセコナルとアンフェタミンをジュディに服用するよう勧めていた。
1940年代初めから神経症と薬物中毒が少しずつ確実に表面化。
やがて1940年代後半からは、神経症と薬物中毒による精神の不安定から、スタジオへの遅刻や出勤拒否を繰り返すようになる。
1947年には、サナトリウムへ長期入院したり、自殺未遂事件を起こす。

次々と大作映画を降板、そしてMGM解雇

1949年に映画『アニーよ銃をとれ』の撮影中に明白な精神異常状態になったジュディはアニー役から下ろされ、また同年に計画されていた『ブロードウェイのバークレー夫妻』でも主役を降ろされた。
ジュディの代役として起用されたのが、同作の主演のフレッド・アステアとかつてRKOでコンビを組んでいたジンジャー・ロジャースである。

1950年の『Summer Stock』を最後にMGMを解雇されることとなる。
ショックを受けた彼女は再び自殺未遂事件を起こし、翌年にヴィンセント・ミネリと離婚。

ハリウッドを離れ、ジャズ歌手へ

1952年、シドニー・ラフトと3度目の結婚。
彼や友人のビング・クロスビーたちの勧めに従ってハリウッドを離れ、ロンドンやニューヨークでのコンサートに拠点を移す。
結果としてこれが成功し、ジャズ歌手としてのジュディの歌唱力は人々に再認識される。

再起を懸け、銀幕へ復帰するが

1954年には再び銀幕に復帰し『スタア誕生』でアカデミー主演女優賞にノミネートされる。
しかし、ワーナー・ブラザーズは彼女の『スタア誕生』撮影の期間における遅刻や出勤拒否に怒りをあらわにしていた。
結局、前評判を覆す形でグレース・ケリーに敗れ、受賞はならなかった。
受賞を逃した失意により、彼女の私生活は再び荒れはじめ、数度の自殺未遂を起こす。
銀幕からも去り、コンサートやショウの分野で活動するようになる。

それでもまた銀幕へ

1961年、彼女は7年ぶりに銀幕に復活。
『ニュールンベルグ裁判』でバート・ランカスターやマレーネ・ディートリッヒと共演し衰えない演技力を見せた。
この作品でアカデミー助演女優賞にノミネートされた。

グラミー賞受賞

1961年に行ったカーネギー・ホールでのコンサートを収録したライブ・アルバムはグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞を受賞する。

薬物中毒の悪化、そして死

だがその後、薬物中毒と神経症は悪化。
逮捕されることはなかったものの、FBIはジュディを監視していた。
後に、情報公開法により膨大なFBIの監視記録が公表されている。
1963年を最後に銀幕から姿を消し、1964年5月に滞在先の香港で発作を起こし一時重体となったが持ち直した。
1969年6月22日に睡眠薬の過剰摂取で死去した

LGBTアイコンとしてのジュディ

ジュディ自身バイセクシュアルであり、当時同性愛者に対して理解を示していた数少ない有名人の一人であった。
ちなみに、ジュディの父親と二度目の夫ヴィンセント・ミネリも両性愛者だった。
そのために、彼女の死のニュースは同性愛者のコミュニティに大きな悲痛をもたらした。
同性愛者の隠語で「ドロシー(=ジュディ)のお友達」とは同性愛者を指し、同性愛解放運動の場では必ずと言っていいほど「虹の彼方に」の曲がかかる。
また、「虹の彼方に」にちなみ「レインボー・フラッグ」(虹の6色)は同運動の象徴とされている。

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