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日本の歴代首相──その家柄、学歴、職歴、実績

日本の歴代首相(内閣総理大臣)の基本データ。

更新日: 2016年06月08日

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xlixさん

第1代 第5代 第7代 第10代 伊藤博文 (1841-1909)

【出身】周防国
【出自】長州藩足軽の息子(元々は農家の息子)
【学歴】松下村塾
【職歴】萩藩士、工部卿、宮内卿、内務卿、枢密院議長
【首相在任期間】1885-1888, 1892-1896, 1898, 1900-1901(通算2720日)
【就任時の年齢】44歳
【在任時の実績】明治憲法制定準備、日清戦争開戦、下関条約調印

首相退任後は、1905年に初代韓国統監に就任し、穏健な形での朝鮮支配を目指した。1909年に安重根によって暗殺されたことは有名だが、この事件に関しては、今でも「実は朝鮮併合強行派たちによる謀殺では?」との説が根強い。なお、彼の師である吉田松陰は「朝鮮・満州・台湾・フィリピンの支配」を唱えていた。この師の教えに、立身出世後の伊藤博文(およびその他の松下村塾OBたち)がどこまで影響されていたかは定かではない。

第2代 黒田清隆 (1840-1900)

【出身】薩摩国
【出自】薩摩藩下級藩士の息子
【学歴】特になし
【職歴】薩摩藩士、北陸道鎮撫総督参謀、参議、陸軍中将、開拓長官、農商務大臣
【首相在任期間】1888-1889(通算544日)
【就任時の年齢】47歳
【在任時の実績】明治憲法発布、超然主義演説(国家は議会・政党の動向に影響されずに独立して運営されるべき、という政府基本方針を示した)

戊辰戦争の参謀として五稜郭まで戦った英雄である。敵方の榎本武揚とは、その後、生涯の友となった。一方、若い頃から酒乱で有名であり、開拓長官時代には、酩酊状態で大砲を誤射して住民を殺したり、酔っ払って政敵の井上馨邸内に乱入する事件などを起こしている。妻が死んだ際も「黒田が酔っ払って殺したのではないか」という噂が飛び交った。また、1881年には開拓使官有物払下げ事件というスキャンダルを起こして、世間から非難を浴びている。

第3代 第9代 山縣有朋 (1838-1922)

【出身】長門国
【出自】長州藩中間の息子
【学歴】松下村塾
【職歴】奇兵隊軍監、会津征討総督参謀、陸軍卿、内務卿、内務大臣
【首相在任期間】1889-1891, 1898-1900(通算1210日)
【就任時の年齢】51歳
【在任時の政策】教育勅語発布、治安警察法制定、大選挙区制導入

「薩の海軍、長の陸軍」と言われるように、日本陸軍は明治〜大正にかけて長州閥の支配下にあった。その象徴が山縣有朋である。政治家としては、黒田と同じく超然主義を取り、政党政治を嫌悪していた。大選挙区制を導入したのも大政党の形成を阻止するためだった。しかし、大正デモクラシー時代に入ると、そうした彼の態度は時代遅れのものとなる。1921年には宮中某重大事件(皇太子の婚約者に色盲遺伝の疑いがあると山縣らが大騒ぎした事件)を起こして、山縣の評判は地に落ちる。没後に国葬が行われたが、ろくに参列客が集まらず、大衆からはよほどの不人気だったようだ。

第4代 第6代 松方正義 (1835-1924)

【出身】薩摩国
【出自】薩摩藩士の息子
【学歴】造士館
【職歴】薩摩藩議政書掛、日田県知事、内務卿、参議、大蔵卿、大蔵大臣
【首相在任期間】1891-1892, 1896-1898(通算943日)
【就任時の年齢】56歳
【在任時の政策】金本位制復帰

大蔵卿時代に日本銀行を創設。また、西南戦争によって生じたインフレを是正するために緊縮財政を実施し、デフレを誘導した。世に言う「松方財政」である。ちなみに、伊藤博文と同じく無類のオンナ好きであり、生涯で26人の子供をもうけた。

第8代 第17代 大隈重信 (1938-1922)

【出身】肥前国
【出自】佐賀藩士(上士)の息子
【学歴】弘道館
【職歴】弘道館教授、参議、大蔵卿、外務大臣、早稲田大学総長
【首相在任期間】1898, 1914-1916(通算1040日)
【就任時の年齢】60歳
【在任時の政策】第一次大戦における対独宣戦布告、対華21ヶ条要求

大蔵卿時代に大規模インフレを止められなかったこと、外相時代に外国人判事導入案を出したこと、首相時代に対華21ヶ条要求を突きつけて中国から余計な反感を買ったことなど、政治家としての業績には疑問が残る。ちなみに、西郷隆盛は、築地の邸宅から白馬に乗って毎日登庁してくる若き大隈を見て「俗吏」と侮蔑していた。しかし、大衆受けは良かったようで、死亡時には日比谷公園で30万人の一般人が参列する「国民葬」が実施された。

第11代 第13代 第15代 桂太郎 (1848-1913)

【出身】長門国
【出自】長州藩士(上士)の息子
【学歴】特になし
【職歴】台湾総督、陸軍大臣
【首相在任期間】1901-1906, 1908-1911, 1912-1913(通算2886日)
【就任時の年齢】53歳
【在任時の政策】日英同盟締結、日露戦争開戦、ポーツマス条約調印、社会主義運動弾圧、関税自主権回復

来るべきロシアとの戦争に備えて首相に担がれた長州の軍人である。日英同盟という布石を打ち、日露戦争をなんとか持ちこたえ、ポーツマス条約調印にまでこぎつけた、という意味で、彼は期待通りの働きをした。その後は、戦前で最も政治的に安定した「桂園時代」が続く。桂はもともと山縣有朋の忠実な子分だったが、この桂園時代を通して「山縣からの独立」を目指していった。

第12代 第14代 西園寺公望 (1849-1940)

【出身】山城国
【出自】清華家・徳大寺家当主の息子(生後すぐ、同じ清華家の西園寺家の養子となる)
【学歴】ソルボンヌ大学留学
【職歴】山陰道鎮撫総督、新潟府知事、東洋自由新聞社長、オーストリア公使、ドイツ公使、ベルギー公使、文部大臣、外務大臣、枢密院議長、立憲政友会総裁
【首相在任期間】1906-1908, 1911-1912(通算1400日)
【就任時の年齢】56歳
【在任時の実績】日露戦争後処理、日露協約調印

極めて恵まれた家に生まれ、ヨーロッパ遊学で放蕩三昧、帰国後は、日本を文明国にしようという啓蒙的精神から政治活動に取り組んだ。桂太郎と意気投合し密約を交わして首相ポストを代わる代わる務める「桂園時代」を築き、現役引退後は「最後の元老」として首相人選の御意見番となるが、昭和の軍国主義ブームを食い止めることはできなかった。晩年には「いろいろやってみたが、人民の程度にしかならなかった」という名言を残している。結局、彼は日本を啓蒙することに失敗したわけだ。

第16代 第22代 山本権兵衛 (1852-1933)

【出身】薩摩国
【出自】薩摩藩士の息子
【学歴】海軍兵学寮
【職歴】海軍大臣
【首相在任期間】1913-1914, 1923-1924(通算549日)
【就任時の年齢】60歳
【在任時の実績】軍部大臣現役武官制廃止、関東大震災後処理

日露戦争でロシア艦隊を打ち破った海軍リーダーである。司馬遼太郎は「日本海軍のオーナー」とさえ評している。首相になってからも、軍部大臣現役武官制を廃止することで軍部の政治介入を抑制し、日本の民主化にも貢献した。なお、妻・登喜子は、新潟の漁師の娘で、品川の遊女屋に売られたところ、若き将校だった権兵衛によって「救出」され、そのまま結婚に至った。

第18代 寺内正毅 (1852-1919)

【出身】周防国
【出自】長州藩士の息子
【学歴】特になし
【職歴】陸軍大臣、韓国総監、朝鮮総督、大蔵大臣、外務大臣
【首相在任期間】1916-1918(通算721日)
【就任時の年齢】64歳
【在任時の実績】シベリア出兵

伊藤博文亡き後、韓国統監として日韓併合を推し進め、併合後に初代朝鮮総督を務めた。朝鮮総督就任を祝うパーティでは「小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらん」という名言を残している。朝鮮を手に入れたことが余程嬉しかったのだろう。首相在任時にはビリケン人形に似ているということで「ビリケン宰相」というアダ名が付いた。没後に三宅坂に銅像が立ったが「醜い」「特に勲功もない軍人の像などイチイチ立てるな」と苦情が相次いだ。

第19代 原敬 (1856-1921)

【出身】陸奥国
【出自】盛岡藩上級藩士の息子
【学歴】司法省法学校(東大法学部の前身)中退
【職歴】郵便報知新聞社従業員、外務次官、朝鮮公使、大阪毎日新聞社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣、衆議院議員、内務大臣、立憲政友会総裁
【首相在任期間】1918-1921(通算1133日)
【就任時の年齢】62歳
【在任時の実績】国際連盟常任理事国入り、高等教育機関の増設、小選挙区制導入

【備考】巧みな政略で政界を生き抜いた原敬は、念願の首相に就任すると、陸相・海相・外相をのぞいて全て政友会メンバーで占めるという「政党内閣」を達成した。なお、原敬は「平民宰相」として有名だが、出自は盛岡藩の上級武士クラスである。1921年、東京駅で駅職員・中岡艮一の手によって刺殺された。原内閣が財閥ベッタリだったことに不満があったようだ。この中岡は、1934年に恩赦で出獄し、満州にわたっているが、その後の消息は不明である。

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