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大韓帝国時代の朝鮮の民族主義活動家で、初代韓国統監を務めた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)[3][4][5]を、1909年10月26日に満州のロシア権益のハルビン駅構内で襲撃して殺害した暗殺者である。

伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づいていた安重根が、ロシア兵の隊列の脇から手を伸ばし、10歩ほどの至近距離から拳銃を発砲した。彼は7連発銃の全弾を乱射した。自伝によれば、安は伊藤の顔を知らず、「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」を伊藤博文であると思い、その人物に向けて4発[注 29]を発砲した。しかし人違いで失敗したとあっては一大事と考えて、「その後ろにいた人物の中で最も威厳のあった人物」にもさらに3発連射したと言う[26]。ただし事件直後の古谷秘書官の電報では、7連発銃のうち6発が発砲されたと報告されている[27]。

伊藤には3発が命中した。伊藤を先導して前に立っていた哈爾濱総領事の川上俊彦[注 30]は、身を翻した際に銃弾が右腕から腹部に入り重傷を負ったが、この1発と合わせて4発が最初の連射[注 29]であろうか。伊藤のすぐ後ろにいて多くの弾丸を受けた[注 31]室田義文は奇跡的に軽傷であったが、紳士然としていた室田は伊藤に間違えられた可能性がある。室田を外れた流れ弾が、その後ろにいた宮内大臣秘書官森泰二郎[注 32]の右腕から肩にかけて通り抜けて軽傷、さらに満鉄総裁の中村是公の衣類、同理事の田中清次郎の右の靴も、それぞれ貫通した。

安はすぐにロシア官憲に逮捕された。停車場の一室に連行される際に、安はロシア語で「コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー!(Корея! Ура! / 韓国万歳)」と大声で三唱して叫んだ。後に供述したところによると、朝鮮語ではなくロシア語を用いたのは「世界の人々に最もわかる言葉を選んだ」ためであったと言う。

伊藤は次第に衰弱して昏睡状態に陥り、約30分後に死亡した。

判決は、1910年2月14日午前10時30分頃、ロシア法学士ヤブゼンスキー夫人、韓国人弁護士安秉瓉、ロシア弁護士ミカエローフおよびロシア領事館員、安の従弟安命根(安明根)、そして多数の日本の新聞記者が傍聴する中で、真鍋裁判長によって言い渡された[49]。安と共犯3名は全員が有罪判決を受けた。

午前11時、量刑ついて話が及ぶと、共犯者とされた禹徳淳は懲役2年、曹道先及び劉東夏には懲役1年6ヶ月の判決が下された。禹は安が暗殺を計画していると知ってピストルを渡した殺人幇助の罪だけでなく、弾丸を用意し、実行直前には蔡家溝駅で見張りをしてその犯行を助けた殺人予備罪に問われた。曹道先と劉東夏はロシア語通訳として働いたのみとされ、幇助罪のみが問われた。実行犯であり、殺人罪に問われた安重根には死刑が宣告された。

同日午前9時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、死刑が執行された。立会人には、溝渕孝雄(検察官)、園木末喜(通訳)、栗原貞吉(典獄)、水野吉太郎(弁護士)らが列した。安がキリスト教の祈祷をする猶予が与えられた後、栗原が被告に死刑執行文を読み聞かせ、遺言の有無を尋ねた。安は別に遺言はないが、臨検する諸君が「東洋平和のために御尽力される」ことを願うとだけ言った。9時4分ごろに絞首台に登り、安が最後の黙祷をした後、15分後に絶命した[52]。水野は安の志を尊重して執行後に皆で「東洋平和のため万歳三唱」することを願い出たが、刑務官に許されなかった[51]。

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