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【忍者】実在した忍者一覧【伝説】

実在した人物でも、実体の部分と後世の講談などによって生まれた虚像の部分の両面があります。

更新日: 2016年04月26日

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the_samuraiさん

存在を証明できる記録は少ないが【忍者】は実在していた!!

服部半蔵

「服部半蔵」とはそもそも「伊賀忍軍」歴代党首の名前であり個人を示すものではありません。
つまり「第二代服部半蔵正成」のように代々襲名していく名前です。

現在のイメージのような服部半蔵は初代のみで二代目以降は甲冑をきて足軽を率いていた武士である。

初代 服部半蔵保長

伊賀の忍者には服部氏族の子孫である「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが狭い土地において生活が逼迫したため、その中の一家である千賀地家の保長は旧姓である服部に戻して伊賀を出て室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となる。だが当時は室町幕府の衰退期であり、保長は見切りをつけて三河に赴き松平清康に仕える事となる。歴代「服部半蔵」のうち忍者と呼べるのは初代だけである。

二代目 服部半蔵正成

世間一般で「服部半蔵」と言えばこの二代目の事を指すことが多いが彼は完全に武士である。
徳川家康に使え各地で戦功をあげる。小田原征伐では遠江に8000石を知行した。家康の関東入国後、与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を領した。自身は武将であったが、父親が伊賀出身であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になったとされる。

甲冑着てますね。
武士ですね。
徳川十六神将とか言われてますね。

風魔小太郎

風魔一党の歴代党首の名前であり個人を示すものではありません。

北条家に仕えること100年の間で、最も有名な五代目風魔小太郎は、「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という異様な姿だったという伝説も残っている。北条家が滅亡すると、小太郎と風魔一党は江戸近辺を荒らし回る盗賊に成り下がり、1603年に盗賊・高坂甚内(甲斐武田家に仕えた忍者)の密告により徳川家に捕縛され処刑され風魔一族は滅亡したと言われる。

加藤段蔵

別名加当段蔵。忍者としての技術に優れるが故に仕える家々で、警戒され暗殺を謀られる。1569年厠に入っていたところを武田信玄の命令を受けた馬場信春(または土屋昌次)によって暗殺されたのである。享年67とされる。その優れた技術から、「飛び加藤」(鳶加藤とも)と称された。

段蔵は異名が示すように飛翔術にすぐれていた。身が軽く、どんなに高い塀や深く長い堀でも、軽々と飛び越えることができた。「幻術を使った」等エピソードには事欠かない忍者である。

百地 丹波(三太夫)

表面上は伊賀一帯を仕切る土豪だったが、裏では伊賀忍者の上忍で、伊賀忍者を統括する3人組の一人であったといわれている。忍者の実力に脅威を覚えた信長は1581年に信長自ら5万の大軍を率い伊賀に侵攻を開始する。これに対して丹波は、柏原の砦に籠もって抵抗したが、衆寡敵せずに多くの一族と共に戦死した(天正伊賀の乱)。
石川五右衛門は丹波の弟子という説があるが、五右衛門に妻を奪われたうえ、その妻にそそのかされた五右衛門によって愛妾を殺害されるなど、散々な関係にあったといわれている。

国際的にも知名度が高く、国際スパイ博物館においても、スパイの祖としての忍者の代表的存在として扱われている。

藤林長門守

戦国時代の忍者。伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主であり、伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していた。甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀双方に影響力を持っていたとされる。服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。
伊賀流の頭目という立場でありながら記録はほとんど残っておらず、その生涯は謎に包まれている。第二次天正伊賀の乱では甲賀の多羅尾氏ともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、織田の軍勢と最後まで戦い抜いた百地丹波と同一人物とする説もある。
長門守の子孫、藤林佐武次保武が今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。

「記録がほとんど残っておらず」というのは忍者が忍者たる所以であると言える。

高坂甚内

武田氏に仕えた甲州流透破の頭領。一説には高坂昌信の子とも孫とも言われる。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康から関東の治安回復の責任者に任命され、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落していた風魔一党の隠れ家を密告し、風魔小太郎を捕縛処刑させた。その甚内も各地の盗賊を糾合し治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、幕府から追われる立場となり、10年後の慶長18年(1613年)に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。

瘧(マラリア)を煩っていたといわれ、死に際に「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。そのため、浅草にある甚内神社では瘧に利益のある神として祀っている。

伊賀崎道順

伊勢の北畠氏や近江の六角氏、後に徳川家康などに仕えたといわれている。
六角義賢に仕えていたころ、義賢の配下だった百々氏(どどし)が謀反を起こした。道順は百々氏の居城、沢山城(後に石田三成の居城となった佐和山城か?)に忍び込み、城に火をかけ、城内を大混乱させ、城を落とし、手柄を立てたといわれ、難攻不落の城も「伊賀崎入れば落ちにけるかな」と詠われたほど。また、鉄砲の名手ともいわれていて、織田信長の暗殺を企て狙撃した事もある。だが、信長に命中せず、隣にいた人物に命中してしまったという記録が残っている。

真田忍者

真田氏は忍者を多く採用していたと言われており、後の真田十勇士のモデルとなった何人もの忍者の名前が資料に残されている。

出浦盛清

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。実名は昌相である。真田氏の家臣であり甲州透破の支配者。村上義清が越後に逃れると武田家に仕え、武田氏滅亡後は織田家臣の森長可に属した。本能寺の変の後、長可が海津城から美濃国へ撤退を図った際には、他の信濃国衆全員が長可を裏切る中、最後まで撤退に協力し、脇差を与えられた。その後、真田昌幸・真田信之父子に仕え、豊臣秀吉の小田原征伐では真田軍として忍城攻めでも活躍した。松代藩では忍者の頭領となり1623年に78歳で死去。非常に優秀な忍者として有名で真田十勇士の一人である霧隠才蔵のモデルとなった人物。横谷左近幸重とともに忍者集団棟梁の双璧と称された。

上月佐助

戦国時代の伊賀国下忍。下柘植ノ木猿(しもつげのきざる)ともいう。真田十勇士の猿飛佐助のモデルとなった人物といわれ、猿を使った特異な忍術を使ったといわれる。

横谷庄八郎

戦国時代の忍者。真田氏の配下横谷左近の弟で本名は横谷重氏。こちらも猿飛佐助のモデルと言われる。関ヶ原の合戦以降真田幸村に仕え、大阪夏の陣で討ち死にしている。

霧隠鹿右衛門

出浦盛清と同じく真田十勇士の霧隠才蔵のモデルとなった人物。霧隠鹿右衛門自体が江戸時代の軍記物『真田三代記』に登場するだけなので、そもそもが実在の人物かどうかも不明。

唐沢玄蕃

武田家、真田家に仕えた。その身軽さを 「飛び六法」と称され、助走なしで1.8mも飛び上がり、12mの高さから飛び降り音を立てずに着地したとされる。跳躍術に加え火薬術にも長けていたといわれている。敵城から金の馬鎧を馬ごと盗み出したという逸話も『加沢記』に記録されている。

禰津信政

真田幸隆・昌幸に仕えた忍者集団の頭領。元は鷹匠の家だった禰津家は甲陽流忍術の家元として知られ、後に女忍者集団「禰津流くの一」を輩出する。

割田重勝

妻七騎の一人。膂力に優れた忍びの達者という。天正十三年の沼田防衛で松田憲秀の乗馬を奪ったという逸話がある。のち盗みの罪で出浦守清に討たれた。

角田新右衛門

出浦守清に属し、真田幸隆、昌幸親子に仕えた。永禄六年、岩櫃城攻撃に間者として功があった。

壺谷又五郎

真田昌幸が沼田城を攻略した際に、褒美として武田勝頼から「甲斐の国のどの領地が欲しいか」と言われたときに、真田昌幸が領地ではなく人をひとり欲しい、と願い出て譲りうけた。真田忍びである「草の者」を束ねる。

これだけの真田忍者が記録に残ってるからこそ「真田十勇士」が生まれたんですね。

石川五右衛門

出典
blog.livedoor.jp
安土桃山時代の盗賊。伊賀流忍者の抜け忍で百地丹波の弟子ともいわれている。古典芸能から映画まで忍術使いとして描かれた作品が多数存在する。百地に対して不義理をはたらいたという悪しき言い伝えがある一方で、時の権力者であった豊臣秀吉を狙ったことから庶民のヒーロー的な扱いもされている。釜茹でで処刑された。

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