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大河ドラマ「真田丸」。ところで「真田丸」って何?

2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の「真田丸」についてご紹介いたします。真田信繁(幸村)が築いた真田丸。大坂城南側の防御、そして、敵をおびき寄せて攻撃するための出城。

更新日: 2017年03月17日

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chakenji106さん

真田丸とは

真田丸(さなだまる)は、慶長19年(1614年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した曲輪である。

”曲輪(くるわ)とは、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B2%E8%BC%AA

馬出し型

これら馬出が更に発展、巨大化していくと曲輪として独立した「馬出曲輪」と呼ばれるものや、「出丸」と呼ばれるものも築かれるようになった。
大阪冬の陣で有名な「真田丸」はこの出丸の規模が大きくなったものである。

砦の中はふたつにわかれ、本体は大きな丸馬出しの形状、その後ろに、小さな丸い曲輪(くるわ)が配置され、二重構造になっていました。

イメージとしては、惣構の外側に、新たにお城を作った、そんな感じです。真田丸はちょっとした出丸のように言われてきましたが、そんな小手先の、ちっぽけで単純なものではなかったのです。

大坂城の南側を強化

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

攻めの真田丸

千田学長は「むしろ攻撃のための出城だった」と新たな見方を打ち出す。
「真田丸の北には深い惣構があるため大坂城内からの援軍が難しい。背水の陣といえる場所」。逆に言えば、「徳川からみれば攻めたくなる。
大坂城に籠もるだけでは勝てないと考えた幸村が練った誘導、接近戦のための陣地だった」。

豊臣方の兵が全員、惣構の内側で守っている中、真田丸だけが惣構の外側に出ているということは、徳川軍がここを標的にして狙ってくるのは自明の理。「襲ってきたら、こう戦う」と、敵の動きを想定して造られているのです。

作戦の基本は“おびき寄せ”です。

徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破ることに成功した。

世界史レベルの名勝負だった

真田丸の戦いは、徳川正規軍vs名将・幸村、高度な塹壕戦vs類のない出城攻撃戦、一流の武将、最高の戦法がぶつかり合った、合戦史上に残る大勝負。

場所

真田丸は、大阪明星学園の場所にあったとする説が有力だ。住所でいうと大阪市天王寺区餌差町(えさしちょう)である。

”鎌八幡(かまはちまん)
真田丸は、西の端は当寺、東は三光神社、南は高津高校まで続く大きな砦であったといわれています

” うめばやし@chang_ume
#京都高低差崖会 #まいまい京都 大阪真田丸ツアーの資料制作。真田丸のシャレ復元については、「諸国古城之図」(浅野文庫)をもとに、「大阪実測図」(1887年・明治20年)の記載地割をかなり参考にしました。あくまでシャレですよ。 pic.twitter.com/yYGikPD8le
https://twitter.com/chang_ume/status/740535340780244992

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