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幕末の志士や新撰組隊士のさまざまな愛刀

誰がどんな銘柄の刀を持っていたか、またその刀の由来などのまとめ。

更新日: 2015年02月07日

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一瀉千里さん

薩摩藩士

「維新の三傑」もしくは「維新の十傑」と称される明治維新後には陸軍大将兼参議となるが、明治6年(1873年)に辞職し鹿児島に帰郷し、明治10年に西南戦争で敗れ自決。享年49歳。

13歳のころ郷中同士の喧嘩の仲裁で、右腕を刀で斬りつけられて負傷し、以来腕が十分に動かせなかったという。

愛刀は【伊勢千子村正】【山城信国】

村正(むらまさ)は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名。または、その作になる日本刀の名。同銘で数代あるとみられる。別称は「千子村正」(せんじむらまさ、せんごむらまさ)。

西郷隆盛の側近。
俗に「幕末の四大人斬り」と言われることがあるが、実際に明らかとなっている暗殺は1件だけである。
維新後は陸軍少将となるが、西郷の下野に伴い辞職し帰郷する。
西南戦争で西郷軍の総指揮をとり,明治10年9月24日鹿児島城山で戦死した。享年40歳。

愛刀は【無銘 伝西蓮】【和泉守兼定】【綾小路定利】

西蓮(さいれん) とは
鎌倉時代の刀工。
筑前(福岡県)博多談議所(九州探題)の抱え工。良西の子といわれているが弟という説もある。正応-文保(1288-1319)ごろの人。
現存するほとんどが無銘

(画像はイメージです)
幕末の四大人斬りの一人と言われる。
土佐勤王党の首領・武市瑞山と意気投合し、義兄弟となる。この頃から岡田以蔵らとともに数々の暗殺事件に関与している。

後に京都守護職の会津藩に捕縛され、尋問の最中に
隙をついて自決したという。享年31歳。

愛刀は【奥和泉守忠重】

奥和泉守忠重(おくいずみのかみただしげ)は沸の華やかな薩摩風の刃が助広の乱刃の様によく纏まって美しく、よく沸づいています。刃紋は湾れ乱れに沸が深い濤乱風の小互の目が交じっており、総じて出来がとても優れています。

長州藩士

江戸三大道場の練兵館に入門し免許皆伝を得て長州へ帰国するまでの5年間塾頭を務めた。
近藤勇をして「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言わしめたという。
維新後は「維新の三傑」もしくは「維新の十傑」と称される。

明治10年病気が悪化し朦朧状態の中、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を発しこの世を去った。享年43歳

愛刀は【備前長船清光】

長船派(おさふねは)とは、中世日本に備前国邑久郡長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点とした刀工の流派。名匠を多数生み出したことから、長船刀工が製作した刀剣は長船物(おさふねもの)として高く評価されている。

なお、通称として単に「長船」「備前長船」とも呼ばれる。

安政4年(1857年)には吉田松陰の松下村塾に入り、松下村塾四天王と呼ばれた。
剣術に関しては、柳生新影流の免許皆伝であり、江戸の神道無念流練兵館でも剣術稽古をしていた。
奇兵隊を始めとする長州藩諸隊の設立と指揮に携わったが、第二次長州征伐の勝利から程なくして肺結核により死去。享年27歳。

愛刀は【安芸国佐伯荘藤原貞安】【粟田口】

粟田口派(あわたぐちは)
鎌倉時代初期から中期にかけて,京都粟田口付近で作刀した刀工の流派。系図では国頼,国家を初代,2代とするが,在銘で現存するのは国友,久国,国綱らの作品からである。

土佐藩士

土佐勤王党の党首。
安政3年(1856年)江戸へ出て鏡心明智流の士学館に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。
黒船来航以降の時勢の動揺を受けて土佐勤王党を結成。
八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8ヶ月の獄中闘争を経て、未だ誰も為しえなかった三文字割腹の法を用いて切腹した。享年37歳

愛刀は【南海太郎朝尊】

南海太郎朝尊の製作者、朝尊(ともたか)とは
1805-1865 江戸時代後期の刀工。
文化2年生まれ。土佐の人。京都で金道に,江戸で正秀にまなぶ。天保年間江戸の湯島天神のそばにすみ,刀剣を製作。晩年は京都ですごした。銘は「南海太郎朝尊」など。

嘉永元年(1848年)14歳の時に小栗流日根野道場へ入門し、嘉永6年に「小栗流和兵法事目録」を得て、江戸へ遊学し北辰一刀流の桶町千葉道場の門人となる。安政元年(1854年)土佐へ帰郷し小栗流中伝目録を取得し師範代を務めた。
二度目の江戸遊学の 安政5年(1858年)には「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。
同時代人の証言によると千葉道場で塾頭を務めたとも免許皆伝を伝授されたとも言われる。
慶応3年11月15日(1867年12月10日)京の近江屋で何者かに暗殺される。享年31歳

愛刀は【陸奥守吉行】

陸奥守吉行(むつのかみよしゆき、1650年 - 1710年)は陸奥国中村出身の刀工。土佐に移住したことから土佐吉行とも呼ばれる。その作品は土佐の刀でも特に優れていると評される。

大庄屋の長男として生まれる。安政2年(1855年)18歳の頃に藩校・田野学館で武市半平太に剣術を学ぶ。文久3年26歳の頃に脱藩をする。慶応元年(1865年)龍馬と共に薩長同盟運動に奔走した。慶応3年に陸援体を組織し隊長となる。
慶応3年(1867年)京の近江屋で龍馬と共に何者かに襲撃され二日後に死去する。享年29歳

愛刀は【信国】

信国派(のぶくには)は延文(1356年)頃から明治まで全国展開した刀工の流派。

(画像はイメージです)
いわゆる四大人斬りの一人。小野派一刀流(中西派)を学び、安政3年(1856年)、武市瑞山に従い江戸で鏡心明智流剣術を士学館で学ぶ。後に勝海舟の護衛を行った際に、3人の刺客が襲ってきたが1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡したという。土佐勤皇党への弾圧で投獄され、慶応元年(1865年)処刑された。享年28歳

愛刀は【肥前忠広】

初代 忠吉は、肥前新刀鍛冶。橋本新左衛門。龍造寺家の家臣である橋本道弘の子。制作の時期により、五字忠銘、秀岸銘、住人銘、改銘後の忠広銘に分かれる。

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