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日本国死刑戦犯に恩赦…日本人ならフィリピンのキリノ大統領の素晴らしい行為に感謝しよう

太平洋戦争で日米両軍が戦い、多数の市民が犠牲となったマニラ市街戦。戦後、憎しみの感情がフィリピン全土を覆う中、どのようにしてキリノ大統領は戦犯に恩赦を与えたのか?

更新日: 2015年03月05日

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キリノ大統領とは?

フィリピン第6代大統領。エルピディオ・キリノ。1890年11月16日南イロコス州ビガン生まれ。父親は刑務所の所長だったため、刑務所の2階が住まいでした。世界遺産ビガンの町にキリノ博物館があります。 第二次世界大戦後の1948年、ロハス政権で副大統領兼国務長官を務めたキリノ氏は、ロハス大統領の死去に伴い大統領に昇格しました。

キリノ大統領は妻と子供4人は日本軍に殺された

第二次大戦末期のフィリピン、ルソン島バタンガスでは日本軍により実に1万3千人ものフィリピン人の住民が虐殺された。また、マニラ市街戦では、マニラは文字通り灰燼に帰し、市民約10万人が犠牲となりました。その中にはキリノ大統領の妻と子供たちも含まれていた。

キリノ大統領は夫婦で日本の着物を着るなど戦前はとても親日家でした。ですが、大好きな日本軍に自分の妻と子供を殺されてしまったのです…。

日本軍戦犯に恩赦をあたえたきっかけとは?

昭和26年、フィリピンの モンテンルパ収容所には 多くの日本人捕虜がいました 。戦犯は次々と処刑されました 。その中の1人に 憲兵として、フィリピンに赴任し 戦犯として 収容所に抑留された 代田銀太郎が いました。 代田は日本には 帰れない想いを詩に書きました。その詩に元陸軍大尉の 伊藤正康が オルガンで曲をつけ「ああ モンテンルパの夜は更けて」が完成しました。

昭和27年、 当時の人気歌手 渡辺はま子宛に モンテンルパ収容所から手紙と楽譜を送り、「この歌を あなたに 歌ってもらえるなら 思い残すことはない」と 書きました。渡辺はま子さんは その声に応え レコーディングをしました 。 レコードが 発売されると、歌は大ヒットし、全国で 助命嘆願の署名が集まりました。

助命嘆願の署名が集まっていることはキリノ大統領の 耳にも入っていたのですが、 日本人によって家族を殺された憎しみとの間で 揺れ動いていました 。そこへ、キリノ大統領宛にオルゴールが届きました。送り主は渡辺はま子。キリノ大統領は その オルゴールの 悲しげなメロディが、 望郷への 思いを歌にしたもの だと 知り、 収容所に いる 日本人戦犯を、全員釈放することを 決めたのです。

キリノは大きな決断をする。憎しみからゆるしへ。

第二次世界大戦終了後の日本では、フィリピンのモンテンルパ刑務所に収容されていた日本人戦犯108名(うち53名の死刑囚を含む)が収容されていました。しかし、キリノ大統領は憎しみを超えて、収容所にいる日本人戦犯を、全員釈放することを 決めたのです。

キリノ大統領はこう言った…

『私はこれまで、日本人戦犯に対する恩赦の請願を種々の形で熱烈に受けてきましたが、最後の最後まで許すことが出来ませんでした。なぜなら私は妻と3人の子供及び5人の家族を日本人に殺されたからです。しかし、もし私がこの個人的な怨みをいつまでも持ち続けるなら、私の子供たちも、次々と永遠に持ち続けることになるでしょう。将来、フィリピンと隣り合わせの位置にある日本との関係は,あらゆる点において親しく助け合って共存共栄の実を挙げなければなりません。そのためには私恨を断ち切らなければならないと決心したのです。』

『私たちは、憎しみや恨みの気持ちを永遠に持ち続けるわけにはいかない。もし、ゆるすことができなければ、穏やかな人生が訪れることはないのだ。我々はゆるすことを学ばなければならない。それだけだ。』

家族を虐殺された恨むべき日本の戦争犯罪人に特赦(これは議会の承認が必要だったそうです)ではなく、大統領特権である特赦を適用して有期刑の戦犯は解放、死刑は本国に送還して巣鴨刑務所で終身刑。

キリノ大統領が議会での承認を必要としない特赦で日本人戦犯を釈放

退任2日前には入院中の病院のベッドの上からフィリッピン国民と日本に向けた声明を発表し、この中でさらに恩赦の宣言をしたそうです。

この真実はあまり知られていませんし、教科書にも載っていませんが、日本人なら知っておく真実だと思います。キリノ大統領の大きな懐にただただ感謝です。

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