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【橋本左内】について【NAVERまとめ】

橋本左内が15歳で書いた啓発録を読んでから感銘を受け10年以上にわたり橋本左内について調べたデータです。

更新日: 2015年05月19日

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この記事は私がまとめました

【橋本左内が大阪の緒方洪庵先生の適塾の生徒であった時の  優しい人柄を知る福沢諭吉とのエピソード】

【橋本左内が大阪の緒方洪庵先生の適塾の生徒であった時の
 優しい人柄を知る福沢諭吉とのエピソード】

学問は実際に世間に
役立たなければならない。

幕末のころ、大阪の緒方洪庵の
「適塾」には
全国から優秀な若者が集まった。

緒方はオランダ流の医者だったが
あらゆる分野にわたっ て学問が深い。

そのため集まった門人達は
医学だけでなく
科学、 兵学その他いろんな学問を
学んだ、その中に福沢諭吉や
橋本左内もいた。

塾長は福沢が務めていた。



橋本は夜になると、必ず塾を

こっそり抜け出た。

福沢が気がついた。

ある夜、また橋本が塾を

抜け出すのを

見た福沢は、

(あいつ、美男子
だから女でもできたかな。
ひとつ尾行してやろう)

と考え、そっと後をつけていった。

とある橋の下に、
橋本が入っていく。

福沢はそっと覗いた。
橋の下には、

家のない放浪者が何人かいた。

橋本の声が聞こえた。

「具合は大丈夫か」

「ああ、お前はだいぶ
よくなったな。
明日からは歩けるぞ」

そんなことを言っている。

福沢はハッとした。
もっと覗きこむと、橋本は

一人一人の放浪者を
親切に看病したり、
診察していた。

福沢は思わず

(そうだったのかと気がついた。

そして、橋本の毎夜の塾脱出を

「女ができて夜遊びを
しているのだろう」

と考えた自分の精神の
卑しさを反省した。

診察を終わって堤の上に
上がってきた
橋本を福沢は呼び止めた。

橋本はびっくりした。

「福沢さん、こんなところで
一体何をしているのですか?」

眉を寄せて聞く橋本に、

福沢は正直に自分が
尾行したことを語った。

そして「すまなかった」と謝った。

橋本は笑って手を振った。
そしてこう言った。

「適塾で学んだことを 私は実際に
試してみたかっただけです。
学んだことがいま生きている人に
役立たなければ、
そんな学問は死に学であって
実学ではありません」

福沢は橋本の言った言葉を
胸の中で繰り返した。

福沢は後に慶応義塾を開く。

ここで学生達に教えた基本的な

考え方は全て、

「学問は実際に
役立たなければならない」

ということであった。

具体的な次のような教えだ。

1.毎日起こっている
社会問題を
自分のこととして考えてみること


2.考えたことを必ず
文章にしてみること。

3.その文章は、
昨日地方から出てきた
お手伝いさんでも
わかるように書くこと

4.特に難しいことを
わかるように書くこと。

5.文章ができたら、
それを暗記すること。

6.そして街頭に出て
通行人に語りかけること。

7.もし通行人が
立ち止まって
耳を傾けるようなら
その意見は本物であること


維新直前、江戸では
上野の山に籠もった
旧幕府軍を、新政府軍が
攻撃していた。
飛び出そうとする学生達に

諭吉は言った。

「行くな。学べ。
学ぶことが今の君達の義務だ」

手塚治虫の曾祖父「手塚 良仙」もいました♪

適塾の歴代塾頭

初代 緒方洪庵、2代 奥山静寂、 3代 久坂玄機(久坂玄瑞の実兄)、4代 大村益次郎、5代 飯田柔平、
6代 伊藤慎蔵、7代 渡辺卯三郎、8代 栗原唯一、9代 松下元芳、10代 福澤諭吉、11代 長與專齋、
12代 山口良哉、13代 柏原孝章

橋本左内の「語学力」まさに秀才!天才。「オランダ語、ドイツ語、英語」を読解し、和漢洋の学問に精通。

橋本左内と西郷隆盛の二人のエピソードが昔の日本の教科書【修身(今で言う 道徳)】に載っていました。

西郷隆盛(橋本左内の心友)

第十五 度量

西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んでいた頃、或日、友達や力士を集めて庭で相撲をとっていると、取次の者が来て、

「福井藩の橋本左内という人が見えて、ぜひお目にかかりたいと申されます」

と言いました。一室に通し、着物を着かえてあって見ると、左内は、二十歳餘の、色の白い、女のようなやさしい若者でした。隆盛は、心の中で、これはさほどの人物ではあるまいと見くびって、餘り丁寧にあしらいませんでした。左内は、自分が軽蔑されていることをさとりましたが、少しも気にかけず、

「あなたがこれまでいろいろ國事にお骨折りになっていると聞いて、したわしく思っていました。私もあなたの教えを受けて、及ばずながら、國のために尽くしたいと思います」

と言いました。

ところが、隆盛は、こんな若者に國事を相談することは出来ないと思って、そしらぬ顔で、

「いや、それは大変なお間違いです。私のような愚か者が國のためをはかるなどとは、思いも寄らぬことです。ただ相撲が好きで、御覧の通り、若者どもと一緒に、毎日相撲をとっているばかりです」

と言って、相手にしませんでした。それでも、左内は落着いて、

「あなたの御精神は、よく承知しています。そんなにお隠しなさらずに、どうぞ打ちあけていただきたい」

と言って、それから國事につて自分の意見をのべました。隆盛はじっと聞いていましたが、左内の考えがいかにもしっかりしていて、國のためを思う真心のあふれているのにすっかり感心してしまいました。
隆盛は、左内が帰ってから、友達に向かい、

「橋本はまだ年は若いが、意見は実に立派なものだ。見かけが餘やさしいので、始め相手にしなかったのは、自分の大きな過ちであった」

と言って深く恥じました。
隆盛は、翌朝すぐに左内をたずねて行って、

「昨日はまことに失禮しました。どうかおとがめなく、これからはお心安く願います」

と言ってわびました。それから、二人は親しく交わり、心をあわせて國の為に尽くしました。

左内が死んだ後までも、隆盛は、

「学問も人物も、自分がとても及ばないと思った者が二人ある。一人は先輩の藤田東湖(とうこ)で、一人は友達の橋本左内だ」

と言ってほめました。

※ 西郷隆盛


•「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」 

人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。

あの西郷隆盛は左内の死を知ったとき「ああ、貴き人物を! 悲憤耐えがたき…」と落涙しその死を限りなく嘆いたという。

西南戦争で自刃した西郷の遺品に、一通の手紙があった。
それは左内から西郷に宛てたものだった。

また左内が投獄されていた江戸伝馬町獄舎の 牢名主は若き左内の人格を敬い「かわれるものなら私が…」と、その処刑を悲しんだとも伝えられている。

また同じ時期に、同じ牢にいた吉田松陰は、 「会えなかったこと残念、一度議論したかった」 と書き残している。

【啓発録】現代語訳。

福井県立郷土歴史館で300円で購入致しました。

左内が15歳で書いた本です。後に立志式の元になります。

現代語私訳 橋本左内 『啓発録』 第一章 「幼稚な心を去るということ」

現代語私訳 橋本左内 『啓発録』 第一章 「幼稚な心を去るということ」


幼稚な心とは、幼い心ということです。

俗に言う、子どもじみたことです。

果物などがまだ熟していないことを「稚」と言います。

「稚」とは、なんであれ、まだ未熟なところがあって、その物が十分熟しておいしい味になるということがまだないことを述べています。

何事であれ、「稚」ということを離れないうちは、物事を成し遂げるということはありません。

人間においても、竹馬や凧(たこ)を飛ばすことやボール遊びを好んだり、もしくは石を投げたり昆虫採集を楽しみ、もしくはお菓子や甘い物を貪り、怠けてラクなことにばかり耽り、父や母の目を盗んで、行うべきことや学ぶべきことを怠ること。

あるいは、父や母に依存する心を起したり、父や兄が厳しいことを恐れて、とかく母親の膝もとに近づいて隠れたがるようなことは、すべて幼い子どもの未熟な心から起こることです。

幼い子どもの間はあながち責める必要はないことです。しかし、十三、四歳にもなり、学問に志を立てた上には、このような心持が毛筋ほども残っていては、何事も上達しません。そんなことでは、とてもこの世界で偉大な人物となることはできないことでしょう。

源平合戦の時代や、戦国時代の頃までは、十二、三歳で母親と別れて、父に暇乞いをして初陣などをし、実績や名誉を達成した人物も随分といます。

これらのことは、その人に幼稚な心がなかったからです。もし幼稚な心があれば、親の膝元から少しも離れることができなかったでしょうし、ましてや実績や名誉を達成することはありえようはずもありません。

かつまた、幼稚な心が害のあるものであるという理由は、幼稚な心を取り除かない間は武士としての気概が発揮できず、いつまでも臆病な武士になってしまうからです。

ですので、私は、幼稚な心を去るということを、武士道に入る一番最初のことだと思っています。

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