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【歴史ミステリー】実は生きていた?歴史上の人物 珍説続々

歴史上死んだと思われたが実は生存していたとされる人物を紹介します。主な人物に真田幸村、豊臣秀頼、安徳天皇等亡くなった直後から生存説が流れましたが、死を惜しまれた人ほどこのような伝承が多いことから後世の人々の願望も多々含まれると思われます。ひとつの説としてお楽しみ下さい。

更新日: 2015年06月08日

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この記事は私がまとめました

日本の歴史においては、惜しまれた人物ほど「実は死んでいなかった」という説が後世に残されたりします。その典型が源義経であったり真田幸村などです。その生存説を紹介したいと思います。

西郷隆盛

西南戦争で敗れ鹿児島県の城山で自害したという
西郷隆盛ですが…

当時の鹿児島新聞には、次のような記事を載せていました。

「西郷、桐野、村田などは、九月二十二日の夜、官軍の囲みを突き破って串木野の島平に着いた。そこから舟で甑島にわたり、桑浦からロシヤの軍艦に乗り込んで、ウラジオストックに上陸。今、シベリヤの兵営にとまってロシヤ兵の訓練をしている。

「西郷はロシアへ逃れ、日露戦争の原因になった」と言うデマは当時盛んにあったようです。

西郷の死後、遺体が西郷のものだという確実な証拠がなかったこと。
西郷が民衆に慕われていたことなどから、西郷が海外に逃れて生き延びていたという
説が当時多数流れたといいます。

大塩平八郎

大塩平八郎の乱。百姓一揆と違い、元与力という役人側の人間が起こした珍しいタイプの反乱。
反乱は鎮圧され、養子の格之介らとともに逃亡。
逃亡40日後、隠れ家を発見され、大塩は爆薬に火を放って自害したはずですが…

大塩が実は死んではおらず、他国へ落ち延びて生存しているという風聞が事件直後から流れたとされている。どこへ落ち延びたかは諸説あり、九州に逃げてから船で大陸に渡った、あるいはシベリアへ行った、直後に浦賀に来日したモリソン号の船上にいた、単純に江戸に潜伏しているというものもあった。

大塩と息子格の助之助は、天草に逃れ、更に長崎から中国に渡ったとされています。
 中国からヨーロッパに逃れたとの話もありますが、
 一方、中国で太平天国の乱を起こしたとの話もあります

大塩の遺体は黒こげになっていて、誰だか分からない状態だったようです。
大塩の塩漬けの遺体は翌年磔刑に処せられますが、
この時には風貌も分からなかったようで、この辺が生存伝説の元になったようです。

安徳天皇

最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し、壇ノ浦の急流に身を投じ崩御となっていますが…

いろいろな場所に生存したという伝承があります。

高知県のほぼ中央部、高岡郡越知町に横倉山という山がある。標高744メートル、その山頂に県下で唯一の宮内庁所管地がある。昭和元年、国から安徳天皇御陵参考地として指定された陵があるのだ。
伝承では、安徳天皇は横倉山で23歳の短い生涯を閉じたという。むろん定説での天皇の生涯はもっと短かった。

平家物語などでは、二位の尼に抱かれて壇ノ浦海中に身を投じたとされています。しかし、「それは替え玉で、実際は…」という生存潜幸説は各地に残っており、それは、全国で18ヶ所、その後の崩御の場所8ヶ所とか、安徳天皇が潜在された場所30余りあると書かれたものもあるようです

硫黄島では、安徳天皇は64歳まで生きたと伝えられ、さらには島の人々から「天皇さん」と呼ばれ、安徳天皇から三十五代目の子孫だと伝えられる人もいるという。さらに「天皇さん」の家には「開かずの箱」と呼ばれる家宝があったが、中身は未確認のまま薩摩藩に奪われたらしい。

出典歴史の意外な結末

明智光秀

本能寺の変後、秀吉軍に敗れて敗走する途中、落ち武者狩りに合い命を落としたというのが定説ですが…

有名な光秀=天海説というものが根強く存在します。

実は明智光秀は生きていて 天海と名前を変えていた。
という説が存在しているのです

光秀=天海説の根拠はいくつかあります。
天海の謚号(死んだあとにおくる名前)は『慈眼大師(じげんだいし)』というらしいのですが、光秀の居城があった京都は北桑郡周山村にある『慈眼寺』というお寺には、光秀の木像と位牌が安置されているのだそうです。

もしも明智光秀=天海なら山崎の戦いのリベンジを徳川家康のブレーンとして豊臣家に果たしたと言えます。歴史ミステリーの面白いところだと思います。

武田勝頼

織田信長の本格的侵攻(甲州征伐)により、天正10年(1582年)3月11日、嫡男信勝とともに天目山で自害した…はずですが。

高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去され、鳴玉神社に葬ると記録(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載)があります。

豊臣秀頼

大阪城落城の際、淀君とともに自害したというのが
一般の定説ですが…

江戸時代に書かれた甲子夜話や甲子夜話続編でも
薩摩に逃れたとされている。

豊臣秀頼の逸話
甲子夜話によると谷山には、昔からある言い伝えがある。それは、秀頼が大阪から出航して薩摩に上陸した地点は、障子川の河口であり、しばらくはその南にある古屋敷に住んでいたが、その後、木之下に移り住んだというものだ。

秀頼は島津家では手厚くもてなしていたが、なにしろ六尺豊かな大男で、酒好きである。おまけに酒癖が悪く、度々乱暴な振る舞いもした。

秀頼は、薩摩島津氏の庇護の下、谷山で隠棲するが、酒を飲んで暴れまわるうえ、酒の代金を払わず、鼻つまみ者として嫌われていた。

秀頼は、貴人として生まれ育ったため、金銭感覚が欠落していて、飲み屋で飲んだあと、「よきにはからえ」と金を払わずに帰ってしまい、飲み屋では、あとで藩にその代金を払ってもらっていた。

出典歴史の意外な結末

真田信繁(幸村)

大阪夏の陣の際、四天王寺近くの安居神社の境内で、傷つき疲れた身体を休ませていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られた…はずですが。

惜しまれた人物ほど、生存説があるというのは、やはり民衆の願望もあるのではないでしょうか。

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