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【幕末諸隊】侠客が多数参加してる部隊の一覧【草莽諸隊】

明治維新の戊辰戦争に参加した倒幕派・佐幕派の諸隊で侠客・(ヤクザ(博徒・的屋))が多数参加してる部隊の一覧と概略。

更新日: 2015年02月27日

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一瀉千里さん

侠客(きょうかく)とは?

この発生の源は室町時代に遡り、「かぶき者」といわれ人目に触れる行為を好み、常軌を外れた行動を誇りとした。江戸時代になると、社会に内蔵する矛盾に対し体制に反抗する姿勢の者が多くなり、
「強きをくじき弱きを助ける」とか「一諾千金より重し」として
義侠、遊侠の行為をする者が増え、これらを総称して侠客という。
その反面には正義の軌道をそれて狼藉に及ぶ無頼の徒もあった。

戊辰戦争の経過図
(慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))

戊辰戦争では多数の侠客(ヤクザ)が倒幕派や佐幕派に属して戦った

■ 集義隊(しゅうぎたい)

【活動期間:慶応4年閏2月から明治4年】
【倒幕派】【所属:尾張藩】【代表:平井亀吉、近藤実左衛門】【隊員数:289名】

尾張藩は親藩として幕軍側にたつべきだが、官軍側に恩を売るため藩とは関係のない地元博徒を士族にする条件に隊を編成し、越後方面に派遣した。この集義隊に参加したのが平井亀吉や近藤実左衛門などである。しかし戦いから戻ると尾張藩は彼らを士族から平民に戻した。ここに博徒らの士籍返還運動が発生する。

平井亀吉(ひらいかめきち) 1828-1893
亀吉は江戸で相撲取りだった。しこ名は雲風の藤八で最高位は十両。
廃業後は郷里に帰り、平井一家親分の小中山の七五三蔵の下にワラジを脱いで声望を高めた後に、
平井一家の2代目となった。
集義隊では一番隊隊長となる。

近藤実左衛門(こんどう-じつざえもん) 1825-1903
念流の剣客で、中京地方に侠名をとどろかせた北熊一家の親分。
戊辰戦争のとき尾張藩の要請を受けて博徒を糾合し集義隊を編成し、
二番隊隊長として官軍方として北陸に転戦した。

■ 勇敢隊(ゆうかんたい)

【活動期間:慶応4年4月から明治2年7月】
【倒幕派】【所属:福岡藩】【代表:大野仁平】【隊員数:500~800名】

「勇敢隊」は博徒や喧嘩好きを集めて急ごしらえで作った隊だったそうだが、指揮官は藩の上級や中級クラスの武士が務めていて、初戦から大活躍だったということもあり、当時はとても評判が良かったとのことである。

大野仁平は博多の侠客で後の玄洋社社員。博徒を主軸とする
勇敢隊を率いて彰義隊討伐・奥羽戦で戦った。仁平は「勇敢仁平」と呼ばれ飛んでくる鉄砲玉を歯で受けたというエピソードがあった。

戊辰戦争で亡くなった勇敢隊や官軍戦没者のねむる全良寺の官修墓地。

■ 衝撃隊(しょうげきたい)

【活動期間:慶応4年閏4月から明治元年10月】
【佐幕派】【所属:仙台藩】【代表:細谷十太夫】【隊員数:66名】

衝撃隊(通称・鴉組)の陣羽織

衝撃隊(通称・鴉組)の隊旗

(ほそや なおひで、天保10年(1839年)または弘化2年(1845年) - 明治40年(1907年)5月6日)幕末期の仙台藩士。通称、細谷十太夫。
戊辰戦争の大赦令が発令されると、かつての部下を率いて宮城県と北海道の開拓に尽力した。
日清戦争では陸軍少尉となり中国に渡って千人隊長として活躍した。後に竜雲院の住職となり、戊辰戦争や日清戦争の戦没者を弔った。

戊辰戦争が始まると細谷直英は白河城にほど近い須賀川でヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、自ら隊長に就任した。
黒装束に長脇差一本で夜襲攻撃を敢行し新政府軍を恐怖のどん底に陥れた。襲撃回数は30数回に及びその全ての戦いに勝利した。

■ 聚義隊(しゅうぎたい)

【活動期間:慶応3年10月から明治元年9月】
【佐幕派】【所属:会津藩】【代表:松宮雄次郎】【隊員数:約40名】

松宮雄次郎(通称:観音寺久左衛門)1868年~1873年
越後の与板藩西蒲原郡弥彦村観音寺一帯を縄張りとする博徒・
観音寺一家の親分。戊辰戦争が始まると自藩が官軍につくなか、配下の博徒40余名と「聚義隊」を組織して、旧幕府勢の「衝鋒隊」と共に会津藩に味方した。与板・島崎・指出の激戦に参加、島崎の戦いでは、高田・加賀両藩の兵にゲリラ戦で挑み大勝利をおさめた。
会津藩が降伏すると、故郷へ戻るも家屋敷は朝敵として焼き払われ
一切を失った。明治六年48歳で生涯を閉じた。

明治3年に松宮は、大河津分水の工事の時に県への出仕を要請されたが、「会津の殿様が謹慎中、しかも自分は賊軍で戦った罪人である」と固辞し、会津藩あるいは自分の時代であった江戸時代に義理を通した。

松宮氏の祖先は、源頼朝の家臣を開祖とする豪族で、代々久左衛門を名乗り、観音寺村に住したと云う。松宮雄次郎は十代目・久左衛門。

■ 上州隊(じょうしゅうたい)

【活動期間:元治元年5月から元治元年10月】
【倒幕派】【所属:水戸藩】【代表:田中愿蔵】【隊員数:約200名】

上州隊のリーダーである田中愿蔵(たなかげんぞう)は元は天狗党に参加していたが指揮官の藤田小四郎と意見が合わず、別働隊を組織するため上州に赴き、若い博徒や農民をかき集めた。 彼ら上州隊の全員が断髪だった。栃木で軍資金を要求し拒否されると陣屋に火を放ったことから天狗党幹部の逆鱗にふれ除名される。放火・略奪の罪で幕藩から追われる身となり組織を解散するが、やがて各藩兵に捕縛され田中愿蔵をはじめとして72名が処刑された。

福島県東白川郡塙町の「道の駅はなわ」敷地内には「田中愿蔵刑場跡」の碑がある。
辞世は「みちのくの山路に骨は朽ちぬとも 猶も護らむ九重の里」。享年21。

上州隊は、上州・下州の農民たちからは「世直しさま」とよばれた。1876(明治9)年には、越堀宿からさらに北の畑のなかに処刑された上州隊の慰霊碑が建てられた。田中愿蔵のことを「早すぎた変革者」と評する声もあるが、豪商の多かった栃木周辺ではいまも
「盗賊」「悪党」よばわりである。

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