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【閲覧注意】田舎・地方の怖い場所・都市伝説・奇妙な慣習・不思議な伝統まとめ

日本各地で既に廃れてしまった慣習や伝統、都市伝説など。真偽の程は定かではありませんので、こんな話もあるんだな〜程度でお楽しみください。

更新日: 2018年02月21日

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この記事は私がまとめました

yukiusagikunさん

コッケさん

私の田舎では『コケシ』のことを『コッケさん』と言って、コケシのような呼び方をすると、大人にそうとう怒られました。
中学生に上がりたての頃。半端なエロ本知識で『電動こけし』という単語を知った。
クラスの友達がコケシコケシと連呼してるのを指副担に見つかり、バカスカ殴られてました。
大学に入って初めて知ったのですけど、指副担(シフクタン)なんていう役職は、ほかの地域にないんですよね。
あ、指副担というのは、生活指導副担という意味で、別に何の教科を担当してたわけでもないです。
野球部のコーチみたいな感じで、毎日学校には出てくるのですが、
だいたい用務員室で茶飲んで、定時前には帰るような感じでした。
学校行事の中で踊りみたいなものは、指副担の先生が指揮をとってました。
運動会で必ず、メイポールの祭りみたいな踊りを伝統的にやらされてたのですが、これは指副担の先生の独壇場でした。
列が乱れたり、ポールから引いたリボンがたるんだりすると怒るような。組体操よりぜんぜんこっちが大事でした。体育教師の数倍ヤな感じでした。

高校に入って、地元の青年会に入ると、コッケさんのあらましは聞かされるのですが、それもまぁ、コッケさんという地神さんは伝統だから行事は守らないといけない、みたいな感じの話で、要領を得ません。
地域に大きな寺社や宗教施設がないし、中学高校にもなると、さすがにいろいろヘンな噂が立ってました。
・**中学の裏にある井戸が本尊で、毎年一人生贄にされる。
・高校出て町に出るときは、井戸に後ろ髪を納めさせられる。
噂は噂でしたけど、実際私がいたころは、後ろ髪を伸ばした奴が多かったです。
単なるヤンキーだったのかもしれないですけど。今は帰らないのでどうかわかりません。
今、同郷の女の子が近くのマンションに住んでて、その子の叔父さんが指副担やってたんですけど、 このスレでコケシの話題が出てたので、なんか関係ありそうだったので聞いてみました。
私たちがコッケと読んでいるのは『固芥』と書くらしいです。
明治に入ってすぐのころ、飢饉と水害の土砂崩れで、村が外部との交通が遮断されたまま、ひと冬放置されたことがあったそうです。

十二月二十八日のこと。(旧暦かどうか不明) 知恵の遅れた七歳の子供が、 村の地区(どの地区かは教えてくれませんでした) の備蓄の穀物を、水に戻して食べてしまったそうなのでした。 その子供は、村の水番が妹との間につくった子供で、(本当かどうかはわかりませんが、水車小屋のような場所があったので、すぐそういう性的な噂が立てられた) 水番が罪を犯すと、翌年は日照りになるという迷信がまだ残っていました。 水番は責任感が強かったので、子供を殺して村に詫びようとしたそうです。 実際『子供を殺せ』と書いた無記名の手紙を投げ入れるような嫌がらせが、すぐ始まったそうです。 水番に不利に扱われていた家も多かったし、 実際、穀物の管理責任は水番にあるので、そういうのが起きても仕方ない状況ではあったそうです。 年明けて一月二十八日の深夜。 いくら何でも水番が自分の息子を殺すのを容認はできませんので、 このことは村全体で考えよう、と談判していたところだったのですが、 水番の妻が泣きながら世話役の家に走りこんで来て、「亭主が首を括ったので来てくれ」と言うのです。

水番の家に行くと、井戸の上に『井』の字に竹を渡して、そこから首を吊るすようにして絶命している水番がいました。 あまりの酷さに世話役たちが顔を背けていると、くだんの息子が傍らから世話役の袖を引いて、 「みましたか!みましたか!」と、目をらんらんと輝かせて尋ねるのだそうです。 この子はもはや正気ではないとはわかっていました。 が、当時の解釈では、これは水番の相反する気持ちが、 子の魂は滅ぼしても子の肉体は母のために生かしておいてやりたい、という願いになり、 親子の魂が入れ替わったのだ、というのが支配的でした。 間引きのために子供を殺したことはありませんでしたが、 このとき村で初めて、この子供を殺そうという結論が出たのだそうです。 横糸を斜めに織った長い綿布で首を包んで、布に少しずつ水を吸わせて、 誰も手をかけないうちに殺そう、ということになりました。 しかし、そこは素人考えですので、首は絞まってもなかなか絶命しません。 子供は父と同じ顔で、「誰じゃ、食ったのは誰じゃ」と声を上げていました。

恐れおののいた村人は、父が死んだのと同じように、井戸に竹を渡してそこから子供を吊るしました。 ものすごい形相でにらむので、まぶたの上から縦に竹串を通しました。 子供は数日糞便を垂れ流して暴れたのち、絶命しました。 その明けた年は、飲み水から病気が発生し、多くの人が命を失いました。 さらに、本当に穀物を食ったのがこの子供ではなく、世話役の十三になる子供だったことがわかったのだそうです。 このとき、世話役は躊躇なく我が子を同じ方法で吊るしたのだそうです。 あくる年の、一月二十八日のことだそうです。 「というわけで、一月二十八日はコッケさんの日になったんですよ」 「はー、なるほど。命日なわけな」 うちで飯を食べてもらいながら、彼女(指副担の姪っこ)に教えてもらいました。 「だから固芥忌(コケキ)っていうのが正しいんですよ」

「運動会の行事も、意味わかると、ひどいね」
「…村人全員で子供をシめる儀礼ですからね。本来、こういう形でやさしく弔ってあげたのに、という偽善ですよね」
「うん」
(運動会の踊りは、メイポール Maypole の祭りに似てますので、知らない人は検索してもらうと、どういう形なのかわかります。中央のポールが子供です)
「…あとですね、これ、私一人で気づいたんですけど」
彼女はペンを取って、チラシの裏に『芥』の字を書きました。
「おお、28やん。オレも今気づいた」
(くさかんむりと、その下の八の字で、二十八と読めます)
「え?」 彼女はきょとんとしていました。
「いやだから、にじゅうとはちで、その命日を表してるんでしょ?」
「…ほんとだぁ」
「え、違うの?」
「いや、そっちが正しいんですよねたぶん」
「何よ、教えてよ」
「いや、いいです」
しばらく押し問答した末、彼女は折れて、文字を書き足しました。
「これね、縦書きなんですよ」

固 芥 「目をつぶされた子供が、竹の枠に首から下がってるの、わかるでしょ?」 ヤな風習ですけど、建前上秘密ですので、それらしい集落に行ってもコッケさんのことは聞かないでください。 指副担は昔の水番の一族がやってるっていうのは、上の文章でなんとなくお分かりになられたと思いますけど、 経緯が経緯だけに、近親婚をやたら気にするんですよ。 もとから村の中はみんな従兄弟みたいな感じなんで、 指副担にはなるだけ事情を知ってるよそ者の血を入れよう、ということになってるみたいです。 あんまり訳知り顔で聞くと、村から出られなくなると思います。

【鹿児島県】大隅半島周辺 ヤバすぎて封印された日本の奇習!おっとい嫁じょ

鹿児島県の大隅半島周辺ではかつて「おっとい嫁じょ」なる奇習が存在した。地元方言で「おっとる」 というのは「盗む」の意味で、「おっとい嫁じょ」を標準語に直訳するならば「嫁盗み」。
簡単にいうと、結婚に不同意な女性を強姦して妻にするという驚くべき風習なのだ。
今よりも女性の貞操観念の強かった時代では、強姦された「傷物」の女性は嫁ぎにくくなるため、 結果として被害女性もその親も渋々、加害男性との結婚を承諾するということなのである。
そして第二次世界大戦後の1959年、この風習が全国的に知られる事件が発生した。
事件の主人公は当時この地方在住の青年A。Aは婚期になっていたため、 義兄の勧めで当時二十歳の女性B子を紹介された。AはB子に一目惚れし、初対面のその場でB子に 結婚を申し込む。その後さらに2回にわたって結婚を申し込んだが、最終的にB子の兄を通じて結婚を断られた。
どうしても諦めきれなかったAが思いついたのが「おっとい嫁じょ」だった。

Aがこの手段に至ったきっかけの1つであろうと思われるのが彼の両親の馴れ初めだ。
そもそもAの母親は結婚前に家族と食事中、Aの父親に拉致され「おっとい嫁じょ」により結婚し、 「おっとい嫁じょ」の「申し子」とも言えるAが誕生していたのだ。   
結局、Aは従兄、叔父の協力で地元の職業安定所から帰宅途中のB子を拉致、再度結婚を申し込んだが、 拒否されたことで知人宅の一室で「おっとい嫁じょ」、つまり強姦に及んだのである。一室を提供した知人は、予め「おっとい嫁じょ」になることを知って部屋を貸しており、
しかもAの強姦後には協力者の従兄と叔父までもが強姦に参加するという、 今ならば悍ましいの一言ではすまない事態まで起こっていたのだ。
ちなみに従来から「おっとい嫁じょ」では、相手女性の抵抗を見越して数人の男性協力者が同行しており、 彼らがご相伴に預かることは珍しくなかったという。
「おっとい嫁じょ」では、最終的に女性とその両親が加害男性宅に結婚の挨拶に来るというのが習わしで、 Aも強姦後に彼女らの来訪を待っていたらしいが、彼の元を訪れたのは警察。
結局、強姦致傷罪でAは逮捕された。

だが、本当に驚くべきはここからだ。
Aが逮捕されると、裁判所には多数の地元住民が署名したAへの 情状酌量を求める嘆願書が提出された。 さらには「お上は地場の風習に手を突っ込むのか」という警察批判や「自分は子供の頃に『おっとい嫁じょ』に 向かう集団の先導で提灯を持ったことがある。何が悪いのか」と堂々と語る地元学校の校長まで現れる始末だった。
弁護人も「地元で『おっとい嫁じょ』は適法視されており、Aに違法性の認識はなかった」と主張したが、 鹿児島地裁は「供述調書からはAが『おっとい嫁じょ』の反社会性を認識していたことがうかがわれる」 との理由で懲役3年の実刑を言い渡した。

実のところ呼び名は別にして、同様の風習は明治期頃までは鹿児島に限らず、日本の地方では存在していたが、 時代の進展とともに徐々に廃れていったという。
なぜ鹿児島でこの風習が昭和期まで残っていたかは知る由もないが、少なくとも、 現在でもこの風習で結婚した夫婦の子供は一部在命している可能性は少なくない。

【鹿児島県】夜這い

鹿児島の別の地域ではこんな夜這いの風習があったらしい。 年頃の娘は父親と母親の間にちょっと間を空けて川の字のように寝てる。 その娘がお気に入りの若い男がやって来て枕元で名を名乗る。
娘はその男が嫌いなら父親を蹴っ飛ばす。すると父親が起きて「こらー」と
言って男を捕まえて殴る。
娘がその男を好きではないが嫌いでもなければ母親を蹴っ飛ばす。
すると母親は 男を見て「きゃー」と叫ぶ。父親は起きるが男は逃げる間があるので殴られずに
済む。娘がお気に入りの男だった場合は黙ってそのままにしてる。
すると男がことに及んで娘と合体する。父親と母親はその間知らん顔してる。
なぜなら父母もその親も代々そうして結婚してきたから。
こっちの方が合理的な風習だよな。

【長野県】神原村(現・下伊那郡天龍村神原)

国土の7割が山である日本。山林によって隔絶された村では、独自の文化が発生する場合が多い。
昔の長野県神原村(現・下伊那郡天龍村神原)もその一つだ。

 耕地面積が少ないこの村では、家長となる長男より下の子供を養う余裕がない。そのため、家に残った下の子供は「おじろく(男)・おばさ(女)」と呼ばれ、長男のために死ぬまで無償で働かされた。

 家庭内での地位は家主の妻子よりも下で、自分の甥っ子や姪っ子からも下男として扱われる。
戸籍には「厄介」とだけ記され、他家に嫁ぐか婿養子に出ない限り結婚も禁じられた。村祭りにも参加できず、他の村人と交際することも無かったため、そのほとんどが一生童貞・処女のままだったと推測される。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。

そんな奴隷的な状況が、ある種の精神障害をもたらすのだろう。おじろく・おばさは無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の行動は出来なくなってしまう。いつも無表情で、他人が話しかけても挨拶すら出来ない。将来の夢どころか趣味すらも持たず、ただただ家の仕事をして一生を終えるのである。
16~17世紀頃から始まったとされる「おじろく・おばさ」制度だが、もちろん現在の神原では、 このような制度は存在しない。ただ明治5年でも190人、昭和40年代に入っても3人のおじろく・おばさが 生きていたというから驚きだ。

【東北地方】封印された日本のタブー...今も残る他言無用の因習「隠し念仏」

2009年、発言小町にて寄せられた「真っ黒い手紙」なる投稿が話題となった。

投稿者である主婦は、家族で夫の田舎に住んでいる。しかし最近、家のポストに黒く塗りつぶされた手紙が届くようになったという。どうも深夜、数人の不審人物が訪れては投函していくようだ。閉鎖的な村なので、ヨソモノの自分に嫌がらせをしているのではないか。その村では、真っ暗なほら穴に老人たちが集まり、ろうそくの灯だけで念仏を唱える「○○まつり」なる伝統行事がある。気味の悪さから、その行事に参加していない自分に、住民が脅迫をしているのでは......。
相談のあらすじは、以上のようなものである。閉鎖的な村の因習・タブーといった要素が受けたのか、この内容についての論議が、ネットを中心に数ヶ月に渡って盛り上がったのも記憶に新しい。

そこで語られていた検証として最も目立ったのは

「これは"隠し念仏"が残っている村ではないのか?」

「"隠し念仏"に参加しない投稿者を、村が排除しようとしているのではないか?」

 といったものだった。

「隠し念仏」とは、いまだ岩手を中心とした東北に現存する信仰だ。

 もともと親鸞聖人の浄土真宗から発した一派だが、主流の本願寺から異端視され、江戸時代には権力側から処刑に至るような弾圧も加わったため、「隠れ」て信仰が行われるようになっていった。まさに邪教との扱いを受け、「犬切支丹」という呼称まで使われていた。外部からの圧力と、それに対抗するための秘密主義は、信者同士の結束を固め、信仰形態も独自なものとなっていく。

明治になり、実質的な禁令は解かれた後も、信者たちは教義や儀式を「隠す」ことを止めなかった。隠すこと自体が、もはや信仰の一つとなっていたからだ。この辺りは、九州の隠れキリシタンと似たような精神性がうかがえる。

 そして岩手を中心に東北に残ったのが「隠し念仏」である。真言密教の流れも含まれ、呪術的で秘儀的な部分が強い。

 ちなみに、同じく禁令をしかれながらも本願寺との接触を続けた南九州の「隠れ念仏」もあるが、それはまた兄弟的な別物と考えた方がよい(こちらも、慣わしとしての"隠し"を行ってはいるようだが)。

【東北地方】オトリアゲ

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