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青森県の南部地方と津軽地方が仲が悪い理由!異なる文化圏が同じ県になった歴史的背景

青森県の東側である上北地方、八戸市などは、もともと南部藩の領土であったにも関わらず、全く異なる文化圏となっていた津軽と合併して「青森県」となってしまいました。現在でも八戸の新聞がデーリー東北、テレビが岩手側の「めんこいテレビ」など異なる文化となっています。

更新日: 2017年10月29日

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naoko5さん

南部藩と津軽藩の文化が違う

南部藩と津軽藩は、100年ほど前まで別の国であったので、文化も全く異なる2つの地域として成立していました。

江戸後期には相馬大作事件の様に、盛岡藩の藩士が弘前藩主津軽寧親を暗殺しようとした事件も起きている。

津軽藩で話されていたのが「津軽弁」であり、青森県で話されていたのが「南部弁」です。

明治維新後に「青森県」が誕生

盛岡藩は、明治維新前までは、東北北部の東側を支配する藩でしたが、明治維新で「反政府側」に認定された事によって、分割されてしまいました。

青森市が県庁所在地になったのは、当時県庁所在地を弘前と八戸が争ってて決着がつかなかったから妥協して間の青森市を県庁所在地にした

*青森市は、もともとは津軽藩の領土であり、津軽藩に有利な県庁所在地となっています。

旧盛岡藩地域の一部(南部地方北部)が青森県に統合されたため、前近代からの地域摩擦が現在の青森県でも残存

八戸市役所ではなく、「八戸市庁」と呼ぶ。県庁に対抗してるらしい。

◆野辺地戦争の対立(1868年11月7日)

奥羽越列藩同盟側の盛岡藩は1868年9月20日に新政府に降伏し、22日に新政府に降伏が受け入れられていましたが、その後に戦闘が起こります。

弘前藩の同盟脱退時から盛岡藩は攻撃を危惧し、7月16日の時点で家老栃内与兵衛を軍事総督として八戸藩からの2小隊を含む400名の備えを津軽国境においていた。

新政府側の弘前藩及び黒石藩の連合軍が野辺地へ侵攻。交戦の結果、盛岡・八戸藩連合軍が弘前・黒石藩連合軍を撃退して戦闘は1日で終了

青森県の西側にある弘前藩

弘前藩は、弘前城を持っていて、明治維新の時にいち早く新政府軍に付いた藩として、明治維新後も優遇されました。

津軽氏は、元は大浦氏を称した。大浦氏は大光寺氏などと同様に南部氏の支族

初代藩主となる為信が南部氏内部に起こった争いを機に周辺の豪族を滅ぼして勢力を広げた。為信は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して大名の地位を公認

弘前城は、新政府側に寝返るのが早かったので、明治維新の後も取り壊される事無く残り続けました。

盛岡藩の兄弟として存在した八戸藩

現在の「八戸市」は、人口24万人の工業都市として栄えていますが、岩手県の「めんこいテレビ」が放送されるなど、文化圏として岩手県の方に近い文化となっています。

八戸藩の領地は、青森県南部から岩手県北部にかけて2万石の地を領有しました。

八戸市議会で岩手県編入案が出たこともある。それ位青森市より岩手のほうが親密。

通りに岩手銀行、北日本銀行、東北銀行が並んでいるのを見たときには本当にここは岩手県かと錯覚

新聞・テレビも違ってた!

青森県の新聞社と言えば、「デーリー東北」と「東奥日報」となっていますが、

いまでも新聞も津軽は東奥日報、南部はデーリー東北と違いますし、南部はどちらかというと岩手に近い

めんこいテレビは、フジテレビ系列の岩手を対象とした放送局ですが、例外的に文化圏が同じである八戸でもテレビに映るようになっています。

岩手めんこいテレビとは、岩手県を放送対象地域とする放送局のことです。この放送局のおかげで八戸はめんこいテレビというフジ系の番組を見ることができます。

祭りに至るまで全く違うものだった!

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