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【オウム真理教】元幹部の学歴に驚愕!!その①※確定死刑囚編

あれから20年、決して忘れることのできない前代未聞のテロ。地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教の元幹部はビックリするような高学歴の持ち主が多かったのです。※裁判の結果次第で更新することがあります。

更新日: 2018年07月06日

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athanaさん

マインドコントロールとは?

マインドコントロール(英: Mind control)は、強制によらず、さも自分の意思で選択したかのように、あらかじめ決められた結論へと誘導する技術、またその行為のこと。

全ての元凶首謀者、麻原彰晃こと松本智津夫

「東京大学法学部卒の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就くこと」を志す。1975年(昭和50年)3月(20歳)、熊本県立盲学校を卒業した。

13事件で27人殺人(裁判では殺人26人と逮捕監禁致死1人)の首謀者として起訴される。

1996年(平成8年)4月24日に東京地方裁判所で初公判が行われたが、僅か48席の一般傍聴席に対して、12,292人という、日本の刑事裁判史上最も多い傍聴希望者が東京地裁前に殺到した。

2006年(平成18年)9月15日、最高裁判所は特別抗告を棄却し、1審通り松本への死刑判決が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは2人目。

豊田亨 東京大学理学部物理学科卒業

白陵高等学校を経て、東京大学理学部物理学科卒業。素粒子理論を専攻し、東京大学大学院理学研究科物理学専攻修士課程修了。大学入学年の1986年9月からオウム真理教の前身であるオウム神仙の会に入会し、1992年4月には同博士課程に進学するが1ヶ月経たないうちに中退し、出家信者となった。

1995年3月20日の地下鉄サリン事件ではサリン散布の実行犯となり1人を死亡させ、358名に重傷を負わせた。

東京大学出身者の死刑が確定したのは日本国憲法下では初めてであり、旧帝国大学出身者としては下関通り魔殺人事件の犯人(九州大学)についで2人目である。

豊田 亨 ホーリーネームはヴァジラパーニ。 教団内でのステージは師長だったが、地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。教団が省庁制を採用した後は科学技術省次官の一人となる。

1995年5月16日の東京都庁小包爆弾事件、1995年4月30日、5月3日、5月5日の新宿駅青酸ガス事件に関与。この他自動小銃密造事件にも関与し、以上4つの事件で起訴された。

自動小銃密造事件
地下鉄サリン事件
新宿駅青酸ガス事件
東京都庁小包爆弾事件

他の共犯者が感情的に証言したり麻原を批判する一方で、豊田は淡々と冷静に証言するだけだった。豊田は「自分がした行為は人間として許されない」「このような事件が2度と起こらないようにするのが極めて当然である。あのようなことをした人間が生きていること自体が申し訳ない」とあくまで自己責任を主張した。これに関して豊田は地下鉄サリン事件の遺族に宛てた手紙の中で「裁かれる者として、遺族・被害者の方の不快感を増大させる言動を慎むことが最低限のとるべき態度だと考えます」と述べた。

高橋克也被告の裁判で証人尋問

オウム真理教の高橋克也被告(56)の裁判で、地下鉄サリン事件の際に、高橋被告が地下鉄の駅まで送迎した、散布役の豊田 亨死刑囚(47)の証人尋問が、収容先の東京拘置所で行われた。

広瀬健一

早稲田大学理工学部応用物理学科を首席で卒業。早稲田大学大学院理工学研究科物理及び応用物理学専攻修士課程修了。

1983年3月、早大学院卒業。1987年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を首席で卒業。早稲田大学大学院理工学研究科物理及び応用物理学専攻修士課程修了。修士課程では学会に『高温超伝導の二次元』という論文を出し、当時の世界のトップサイエンスであるとされた。

大学院在学中の1988年3月、「突然の宗教的回心」が起きたためにオウム真理教に入信。1989年3月に出家信者となった。
第一審、控訴審ともに死刑判決を受け、弁護側が東京高裁での判決を不服として上告していたが、2009年11月6日に上告棄却が決定し、死刑が確定することとなった。
オウム真理教事件で死刑が確定するのは7人目。

ホーリーネームはサンジャヤ。教団内でのステージは菩師長だったが、地下鉄サリン事件3日前の尊師通達で正悟師に昇格した。教団が省庁制を採用した後は、科学技術省次官の一人となる。

1995年3月20日の地下鉄サリン事件には、実行犯としてサリン散布に関与した。他にも自動小銃密造事件にも関与し、以上2つの事件で起訴された。

自動小銃密造事件
地下鉄サリン事件

1988年末、麻原は広瀬に「救済が間に合わない」と出家を迫り、広瀬は指示どおりに翌年3月31日に出家した。共犯者が「ヨハネの黙示録に基づいてハルマゲドン(最終戦争)を生き残るために、教団の要となる学歴の高い人が期待されており、広瀬が該当した。広瀬の出家担当は教祖」と陳述していることから、麻原が広瀬を武装化要員として出家させたことは明らか。

彼の裁判に早稲田大学時代の先生が証人として出廷なさいまして、色々な話をなさったのですが、大変私にとって印象的でありました。早稲田を首席で卒業すると銀時計が出るそうでありまして広瀬健一は銀時計組であります。
応用物理学科の学生は100人だったそうでありますが、この教授が大学で長く教えた経験からすると、広瀬健一は本当に大変な秀才だったそうであります。

彼のお父さんはブルーカラーのお仕事をなさっていて、法廷で証言なさったのですけれども、二十歳過ぎて「おい、健一。今日一緒に呑もうよ」と言っても「いや僕、しなければならない事があるので」と言って勉強ばっかりしていたというのです。本当に勉強ばかりしていた。だからテレビは見たかもしれませんが、映画も見に行ったことがどうやら無さそうなのです。
そういう秀才が先生の証言にあるように、人を疑うことを知らないから、結果的にこうなってしまった。

ご遺族宛に書く手紙の為にボールペン習字を始めた結果...

ものすごい達筆ですね。

中川智正 京都府立医科大学医学部医学科卒業

1988年3月京都府立医科大学医学部医学科卒業。大学では柔道部に所属し大学祭の実行委員長を務めるなど、明るく温厚で実直な人柄から交友関係は広かった。

1988年2月にオウム真理教に入信。オウムとの出会いは、医師国家試験合格から就職までの空いた期間に、ほんの興味本位で麻原のヨガ道場を覘いたことが発端となっている。
1988年5月に医師免許を取得し、研修医として一年ほど勤めた後の1989年8月末、周囲の反対を押し切り退職し出家。
1995年、自ら申請して医師免許取消処分。自ら申請というのは前例はなかった。2011年11月18日、死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が確定するのは12人目。

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