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発狂後の手記。油断していると時々ハッとすることが書いてある。オーガニックな“病める舞姫”。

“何を言ったらいいか、わからない。何を黙ったらいいか、わからない。” p113
“僕はちんぽ、でもあんたのものじゃない。あんたは僕のもの、でも僕はあんたのものじゃない。ちんぽは僕のもの。ちんぽ。僕はちんぽだ。僕はちんぽだ。僕はちんぽの中の神だ。僕は僕のちんぽの中に宿った神だ。あんたのちんぽは僕のものじゃない。僕のものじゃない。僕は彼のちんぽの中のちんぽだ。僕ちんぽ、僕ちんぽ、僕ちんぽ。あんたはちんぽだ、でもちんぽじゃない。”
“僕は子守歌だ。ねんねこ、ねんねこ、ねんねこや、安らかにお眠り、ねんねこ、ねんねこ、ねんねこや。” p366

古今東西のニジンスキーに言及した文章を集めた労作。錚々たる執筆陣。土方巽や笠井叡も。写真多数。エドウィン・デンビー“ニジンスキーの写真に関するノート”が面白い。

ニジンスキーにとって踊ることは、まねることからも物語ることからも、それによって制限される高度な形式性からも逸脱し、たえまなく、無制限に、何かになることである。そのため彼は「牧神の午後」のパフォーマンスのようにほとんど踊らぬことすらできた。「跳躍もなく、むずかしい技術の見せ場もない。ただ半ば人間の意識をもつ動物の身ぶりとしぐさがあるだけだ。」(ロダンの評)牧神であるのでもなく、牧神でないのでもなく、牧神になること。彼はキリストであり、反キリストである。いや、キリストでも、反キリストでもない。キリストになることだけが問題だから。牧神のテーマは、動物でもなく神でもなく人間でもない場所の生成と変化にむけられる。 p144 「言葉とニジンスキー」宇野邦一

ジョージ・パル監督「ラオ博士の7つの顔」より。パンの部屋。

神話。

牧神にはこんな癖があった。夜のしじまのなかで、通りかかる牧人たちに生くさい気をふりかけたり、おそろしい音響をたてたりして喜ぶのである。そのため原因のわからぬ恐怖のことを、住民は「牧神の恐怖」と呼んでいたくらいだった。

ニジンスキーを通して展開されるの舞踊論。ダンサーが書いたかのような本。後年、精神に異常をきたしてからのニジンスキーの様子が舞踏っぽい。

遊んでいる子供には彼ら以上のなにかがある。彼らは〈花子〉や〈太郎〉をふみこえた領域で行動している。ホイジンガのことばをかりれば、彼らは〈別の存在〉になっているのだ。このことが最もはっきりしてくるの〈白昼夢〉の場合であろう。子供たちは父親になったり母親になったり、幼稚園の先生になったかと思うと自分より小さい幼児になる。あるときはギャングになり、あるときはインディアンとなり、子犬になったかと思うと、こんどは飼い主になる。ドロテー・ギュンターは〈子供は完全に自己の外にぬけだす〉という。ある少女は抱いていた人形の首がとれてしまったとき〈痛いよ〉といって泣いた。このとき彼女はもはや彼女ではなく、自分の抱いていた人形に変容していたのである。

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跳躍はプリエにはじまりプリエに終るが、跳躍とは身体が〈大空に飛翔するすることであり、クラシック・バレエにおける〈大空とは象徴的にいって精神、つまり神的なものの存在する場である。〉このようにクラシック・バレエの基礎をなす二つの技術は精神的なものに方向づけられているということができる。ーーーーーー
ただクラシック・バレエにおいて、この人間に本質的なものは、精神的なものにのみ方向づけられた。そこには精神と肉体あるいは物質、天と地という二元論が根底にあることは明らかである。ーーーーーー
もし二十世紀が二元論の克服の世紀であるとあるとするならば、その波は早晩、おどりの世界にも及んでくるものであった。ニジンスキーの〈牧神の午後〉こそ二元論の克服の先駆だったのである。

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舞台はもはや登場人物によってこま切れにされず、一つの塊と化す。それは〈身体〉の空間、〈身体〉における人間の実存が展開される場所となる。

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写真多数。ダンスではなくダンサーの系譜の始まりとしてのニジンスキー。

Patricia Piccinini

人類と似た文化を持っているが、全く話が通じない。ヒトを虫としか認識していない。人外の設定として秀逸だと思った。

デビッドリンチ「イレイザーヘッド」。この謎の生物の印象しかない。

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Pijin Neji