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生真面目過ぎた一生・松平容保

幕末の会津藩主。徳川幕府の要請により家中の反対を押し切り京の治安維持をする京都守護職に就任する。会津藩上げての生真面目な仕事ぶりから時の孝明帝の信頼を一身に受ける。しかし時代の流れと徳川慶喜の裏切り行為により朝敵の汚名を着せられ会津戦争の悲劇を招く。書きたいことがたくさんありますので随時更新します。

更新日: 2018年05月27日

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この記事は私がまとめました

優誠さん

これまで容保を演じた俳優さん達

風間杜夫さん

1986年放送 白虎隊

東山紀之さん

2007年放送 白虎隊

伊東英明さん

2013年放送 白虎隊~敗れざる者たち

綾野剛さん

2013年放送 八重の桜

1.会津の大活躍、京都守護職就任

幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になっていた。文久二年(一八六二)に徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。

文久二年閏八月一日、會津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、十四代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられた。役料五万石・金三万両を与えられた。會津藩は京都守護職に任命されるにあたり幾度か固辞をしたが、藩祖保科正之(三代将軍家光の異母弟)の「家訓(かきん)」に順じて容保が決意したものである。守護職を拝命するにあたっては、家老の西郷頼母・田中土佐は、「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対するが容保の意は変わらず家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。これにより君臣一丸となり、會津藩松平容保は家臣一千名を率い文久二年十二月二十四日午前九時頃京都三条大橋に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受け、本陣となった黒谷金戒光明寺に至るまでの間、威風堂々とした會津正規兵の行軍が一里余りも続いた。

2.鳥羽伏見敗戦・江戸無血開城

薩摩藩江戸藩邸焼き討ちに端を発する、鳥羽伏見の戦いは慶応4年(1868)年1月2日開始された圧倒的な人数で討幕派を撃破できるはずのこの戦いは幕府軍の指揮系統の乱れ、戦略大小火器の差によって幕府軍の敗退に終わる。なにより幕府軍および佐幕諸藩が動揺したのは賊軍であるはずの薩長土肥の連合軍に錦旗が下賜され自分たちが賊軍になったことである。

この時一番落ち着き全軍を鼓舞しなければならない総大将徳川慶喜は事もあろうに大阪沖に停泊中の幕府海軍旗艦開陽で江戸に逃亡を図るのである。容保もまた実弟松平定敬(京都所司代)と共に慶喜に従い江戸へ戻る。江戸に戻った慶喜は恭順の意を示しやがて江戸無血開城となるのである。

3.そして会津へ・・・

話は前後するが敵前逃亡した将軍慶喜に付き従い江戸へ帰還した容保であったがこともあろうに慶喜は自己の保身のみを考え主戦派の家臣達と容保に登城禁止を申し渡してしまいます。結果として自分の家臣を裏切った形となってしまった容保もこのことにより再度家臣達との絆を深め君臣一体となって故郷会津へと帰還しました。江戸無血開城となり振り上げた拳のおろす先を失った東征軍は北関東から東北を経て会津城下へなだれ込み会津の悲劇が始まることになります。

戦争当時の鶴ヶ城

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