1. まとめトップ

【西郷どん】西郷隆盛の本当の顔は「あの顔」で間違いなかった!!

テレビや本などで歴史上の○○は実は○○だった!とかを、よく確かめもせずに信じてる人いませんか?特に戦後に突然広まった新説・珍説は嘘が多い。

更新日: 2018年12月30日

8 お気に入り 358104 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

士-SAMURAI-さん

西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。
親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。



服部英龍/画(上段左)
肥後直熊/画(上段右)
床次正精/画(下段左)
石川静正/画(下段中央)
平野五岳/画(下段右)

西郷隆盛を写した写真は無い、
しかし西郷を描いた肖像はかなり知られている。
この絵はお雇い外国人画家エドアルド・キヨッソーネが描いた有名な絵だ。


伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。


西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。

( 1833年1月21日 - 1898年4月11日)
イタリアの版画家・画家で、明治時代に来日したお雇い外国人

西郷従道

この西郷従道の写真は顔の下半分が髭で隠れているから、実際の西郷隆盛は大体このような顔だったのではないだろうか。

しかし、キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からの アドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、西郷の 肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。


得能良介

また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」 といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが

「 西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、 亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で 出るような礼儀をわきまえない人間ではないのに という文脈で解説している。 」


上野の西郷象

西郷の肖像はキヨッソーネの絵だけではない。実際に西郷と面識があり西郷の肖像を描いたと確認される絵描きは沢山いる

「もと荘内藩 士族の石川静正が、明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き8年4月にも再訪し、西郷の風容に接した。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。これを見た薩摩出の洋画の巨匠黒田清輝が、肖像画家として令名の高かった門弟佐藤均に勧め、苦心の上、大正2年に完成したのが此の肖像。隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。」(「安藤英男『西郷隆盛』 学陽書房」)

「もと荘内藩 士族の石川静正が、明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き8年4月にも再訪し、西郷の風容に接した。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。

「西郷隆盛の肖像」佐藤均/画

隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。」(「安藤英男『西郷隆盛』 学陽書房」)

隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。

この絵を描いた画家の肥後直熊は西郷の家の隣家に住み、幼少のころに西郷に可愛がられて「直坊」と愛称され、膝の上で 遊んでいたという。西郷没後50年に描いた絵。
よく似ていると評価されているという。

着流しの上野の西郷象の
モデルになった絵である。この絵も模写した
ものである事が知られており、
都城島島津家のお抱え絵師 中原南渓 が描い
た絵が元になったと近年判明した。

「2003年8月、に見つかった肖像画 平野五岳 
西郷に面会を申し込む内容の漢詩も記されている。
書簡の日付は明治9(1876)年10月で、
西南戦争が始まる4か月前。
この月、五岳は、明治政府の大久保利通から西郷の蜂起を思いとどまらせるように依頼を受けて、鹿児島を訪問したといわれるが、西郷には会えなかったとされてきた。
河内昭圓・大谷大学文学部教授が掛け軸を調査し、肖像画に描かれた「丸に十字」の薩摩藩の紋付き羽織(もんつきはおり)が、鹿児島市にある西郷南洲顕彰館で保存されている遺品の紋付き羽織と同じものであると判断した。
そのため、この掛け軸は、五岳が直接西郷に
会って描いたとみられている。」

どうやら、あのような顔だった事は間違いないようである。

※SAPIO2017年10月号
どれが「本当の顔」に近いのか。西郷の曾孫で陶芸家の西郷隆文氏が語る。

「親族の言い伝えでは西郷はひげを生やさなかったので服部画は信用できず、平野画は老けすぎの印象です。最も似ていると思うのはキヨッソーネの肖像画。確かにモンタージュですが西郷の死後5〜6年ほどで作製され、鹿児島で西郷と親しかった人々のチェックを受けており、信憑性が高いと思いますね」

原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒らを写したものであるのは間違いないようだが、「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。(大阪文化・生活部 早川保夫)

2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面

元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。

島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」
加治将一「西郷の貌」の問題点
http://bit.ly/2jPqjaZ

※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。http://bit.ly/2gcZqgy

研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。
http://bit.ly/2fgSUTe

鹿児島の西郷像(左)石澤宏太郎(右)
キヨッソーネの西郷の肖像画を参考に地元・鹿児島市出身の安藤照が8年をかけ製作した鹿児島の西郷隆盛銅像。

右の写真は鹿児島の西郷象の構図のモデルになった元山形県議会議員の石澤宏太郎氏

鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は構図と体型そして雰囲気のモデルであって、鹿児島の西郷象の顔はキヨッソーネの肖像画がモデルである。

1 2