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意外と最近まで存在!?日本最大の遊郭「吉原遊郭」について

江戸時代には最大規模を誇った風俗街である「吉原遊郭」。実はほんの50年ほど前まで、東京の一角に存在していたのです。

更新日: 2015年11月20日

Randonneuseさん

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吉原遊郭とは

江戸幕府によって公認された遊廓。

吉原遊廓は数多くの遊郭の中でも最大級の規模を誇っていた。
敷地面積は2万坪あまり。最盛期で数千人の遊女がいたとされる。

2万坪とは東京ドームの1.5倍、サッカーコート8個分という驚異的な大きさ。

実は、その存在は最近まであり、1600年代から1957年に禁止されるまで存在した。

吉原遊郭の歴史

徳川家康が江戸に入り、江戸幕府を開いたことにより都市開発が活発化したことがきっかけ。

江戸を政治の中心地にふさわしい街にするため、街では土木工事がつねに行われつづけた結果、全国から職人男性に大量に流入した

そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになったのだが、都市開発や風紀の都合もあり、一か所にまとめて管理されるようになったのが始まり。

それでも、市中にはもぐりの遊女屋が現れ、そのような店との競合関係が長く続いていたようです。

吉原遊郭とはどんな場所だったのか?

現在の我々が想像する風俗と違い、さまざまなルールが存在した。

吉原に存在した独自のルール。

妓楼に通う回数により、“初会(1回目)”“裏(2回目)”“馴染み(3回目以降)”と客の呼び名が変わった。

「花魁は3回通わなければ肌を許さない」というのは、「伝説」だが、馴染みとなるまで、その都度祝儀を取られる。

呼出し昼三(昼夜とも揚げ代が金三分の最高級遊女)と遊べば、酒宴代や祝儀も含め現代の感覚でいえば一晩で約100万円かかりました。

馴染みの遊女が先客中の場合、客には遊女の妹分・新造が派遣されることもあったが、手を出すことは厳禁。最初に指名した遊女以外と遊ぶことはできなかった。

吉原遊郭のその後

明治期以降になると、政界、財界の社交場所は東京の中心地に近い芸者町(花街)に移ってゆき、次第に吉原遊廓は縮小を余儀なくされていった

明治時代には、東北などの農村部から買われてきた遊女が集められていた。

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