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意外と伝統的ではないお墓の歴史

お墓のプロがお墓の歴史と今後の展望について

更新日: 2015年04月25日

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この記事は私がまとめました

KOUBO-Japanさん

なぜ埋葬するのか?

どうも、はじめまして、墓屋KOUBOの三宅と申します。古今東西ありとあらゆる墓、埋葬、儀礼などなどそれらにまつわるお話を、現代墓屋の観点から俯瞰してみようというのがこのブログの目的です。
墓というのは不思議なもので、基本的に意味のないものです。科学が発達した現代では死後の世界がないこともわかっているし、もちろん死者が私たちを呪ったり祟ったりすることがないことも知っています。私たちは人間を含めすべての生物は、生まれそして死んでいく、ただそうした一連の自然の流れの一部に過ぎないと私たちは知っています。それでも私たちは埋葬することをやめようとはしません。
それは一体なぜなのか、その答えは一見簡単なようでもありますが、この問いは頭の中で掴もうとすると、するりと逃げてしまうようなところがあります。直感と理性のバランスがとれなくてうやむやになってしまいます。おそらくですが、人がなぜ埋葬するのかという問いは、直感でも理性でも判断しきれないところに人間の業の深さを見出さざるを得ず、ひいてはその「無意味の意味」のような矛盾した在り方そのものが、いかに今を生きていくかという私たち自身の現在にまでその意味を投げかけてくることに、この問いの難しさがあるように思います。禅問答のように何か問い続ける存在としての人間を象徴するもの、墓とは現代においてそのようなものだと言うことができるかもしれません。

まずはお墓の歴史を振り返ろう

さて、最初の記事ということで、まずは私たちが今現在実際に使っているお墓から話を始めて、その歴史を簡単に振り返りたいと思います。

私たちが墓と聞いて想像するものはどんなものでしょうか。おそらくですが、ほとんどの人がこんな感じのものを思い浮かべるかと思います。

墓ですね。
これはカロート式の墓です。費用としては墓石代、工事費、墓地使用料などを含めておよそ100万円から300万円。今の日本ではこのようなお墓を建て故人を供養するのが一般的です。
まずそもそもカロートとは何なんだということですが、これは日本語です。言葉の意味としては墓の地下、内部に火葬した遺骨を納めるそのスペースのことを指します。漢字で書くと「唐櫃」で、櫃とはかぶせ蓋がついた箱のことです。米櫃とかのヒツですね。湿気などを防ぐための脚をつけたスタイルのものが古代に中国から輸入され、それを唐櫃(かろうと、からびつ、かろうど)と言います。一方、棺のことを屍櫃(かろうと、からびつ)と言いました。もともとはこちらの字だったものが、唐櫃となり、私たちは今カロートと言っているわけです。

意外と浅い? カロート式のお墓の歴史

現在主流のカロート式のお墓ですが、では私たちはいつからこのカロート式の墓を使っているのでしょうか。
その答えは一言で言えば、火葬が普及するとともに、ということになります。ではいつから全国的に火葬が普及するのかといえば、それは戦後です。日本の火葬が50%を超えたのが1950年代、1980年代に90%を超えます。現在は99.9%です。逆に言えば戦後間もない頃は、日本全国の半数以上が土葬だったということです。
それ以前はというと、江戸時代に江戸や大阪、京都などの都市の人口密集地域で火葬が行われているくらいでした。火葬自体は日本海側や浄土真宗地域、皇族や平安貴族、僧侶、武士などの間で古くから各時代において行われていた記録がありますが、あくまでも明治以前はごく少数であり、一般庶民は基本的に土葬、風葬、あるいは遺棄でした。
戦後になり都市部へ人口が流入し、近代都市としてのライフラインが整備されるにつれ火葬も広範に普及し、それと並行して土葬にとって替わったカロート式のお墓も広がりを見せ、今の日本の墓地の風景が形作られていくことになります。

墓地の歴史 明治期から現代まで

明治期の墓地政策は、神仏分離令における寺請制度の解消、離壇を背景に造営された神葬祭地に始まります。既に土地問題を抱えていた東京と大阪で初めての公共墓地・神葬祭墓地として、青山墓地や天王寺墓地などが造営されます。東京の谷中墓地、染井墓地、雑司ケ谷墓地もその時に神葬祭墓地として造営されています。その後、1876年には明治政府管理の墓地は東京府に移管され、脱宗教化します。神道派の影響から火葬禁止令も布告されましたが現実離れした政策だったことから2年で解除、その結果宗教的理由は除外され、公衆衛生的観点から火葬化が進みます。また明治期には伝染病屍体の火葬義務付けや都市部における土地不足から土葬禁止の地域が指定されるなどの法令規則が施行されたこともあり、仏教者以外の火葬が行われるようになり、墓地の公共施設化が進みます。その後も火葬技術の発展とともに徐々に火葬が増加していきます。
日本の墓地の雛形となるのが大正期の1923年に造営された日本初の公園墓地多磨霊園です。その後も都市部を中心に日本の各地で公共墓地が造営されていくわけですが、こうして墓地がおどろおどろしい暗い穢れの場所から、私たちに馴染みのある太陽と緑にあふれたメモリアルパークへと変容していくわけです。これ以降造られる墓地のほとんどがこの多磨霊園をモデルにしています。むろん、多磨霊園は欧米の公園型の墓地をモデルにしています。そして戦後になり、高度経済成長と共に民間の大規模霊園が登場します。市場原理に基づく墓地形成は営利主義と画一化をもたらし、日本中似たようなメモリアルパークでいっぱいになります。
そうした状況の中で日本の墓地問題としてよく語られるのが、明治民法に規定された家制度に基づいて作られた墓制が、都市の家族形態の実態と合っていないという点です。つまり実際には核家族化、個人化しているにも関わらず、明治期に作られた祖先崇拝の家族墓が制度として残っているということです。ちなみに「○○家之墓」と書いてあるお墓をよく見かけますが、これは日本に古くからあるものかと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、実際には明治期に作られたものです。実はそれ以前は家族墓というのはなく、基本的に個人墓でした。そうした現実と制度のミスマッチによって無縁墓が増えたり、お墓を相続できないなどの問題が浮上してきたわけです。
そのような人口集中による地縁血縁の解消という現実と形骸化した制度の齟齬を埋め合わせる形で、現在の日本の都市部において無縁者のための民間共同墓地や個人墓、都市型の納骨堂などが現れます。そして1990年代に入り、バブル崩壊に象徴される後期資本主義的な流れを背景に、市場原理とは少し異なるベクトルで散骨や樹木葬、果ては宇宙葬などの葬送儀礼の多様化が見られるようになります。また一方でより加速した市場原理の形として、低価格化の流れが現れます。巨大資本が葬送儀礼産業に参入することにより、新たな葬送形態として、より低価格化、簡素化したサービスが提供されるようになっていきます。よく言えば時代を反映した顧客のニーズに合わせたサービスが提供されるようになったということができ、悪く言えば葬送儀礼にも格差が生まれたということができるかもしれません。

つまり、現在は墓や葬送という儀礼自体がその都市機能としての意味を変え、再社会化される過渡期にあると言うことができます。

お墓のかたちは制度から

そうしたカロート式のお墓の話も踏まえると、実は、今の私たちの墓や墓地などの儀礼慣習は、当たり前と言えば当たり前のことですが、外部環境によって決定づけられている側面が多分にあるということです。
先にも述べましたように、実際、江戸時代にも江戸や京都、大阪といった都市部では土地不足により火葬が行われていました。つまり一口に火葬率といっても当然地域差が有り、さきに上げた多磨霊園が造営された1920年代、全国における火葬率が40%であるのに対し、東京府における火葬率としてはその時点で既に70%を超えていました。そこには、都市の構造変化に伴う喫緊の課題としての変化が表れています。
また更にお墓を遡ってみると、そもそも石塔というかたちは中世までは一般的には行われていませんでした。江戸時代に入り、寺壇制度が制定されることによって、葬送儀礼がいわゆる葬式仏教化し、徐々に石塔の建立が行われるようになりました。今私たちが目にする角柱型の石塔が一般化するのが今見てきた明治からの一連の流れの中においてであり、それ以前の石塔は、例えば大和の石塔を調査した国立歴史民俗博物館の研究報告によれば、中世後期から江戸時代にかけておよそ400年の間に、舟形、板碑型、光背五輪塔型、駒型、櫛型など時代ごとに一定の形態的な変化があったという調査結果が出ています。私たちが知っているお墓は、江戸時代の寺壇制度に端を発するそうした一連の流れの中にもあり、また同時に近代における国の政策の結果でもあるということです。

私たちは今のお墓に昔から続く伝統や歴史のようなものを少なからず感じるわけですが、そういった認識は半分あっていますが、半分は間違いとは言わないまでも誤解が含まれています。むろん、風土から興る精神性や宗教性が私たちの作り出す文化やものの形に現れていることは言うまでもありませんが、一方で時に政府政策、時に都市問題、時に市場原理、というように社会構造によってその都度大きな変化を受けているのもまた墓制だということは理解しておかなければなりません。

多様化すると責任が生じる

しかし、それでも冒頭に申し上げましたように、埋葬するというその行為自体が無くなることはありません。私たちの死生観は社会環境を反映するように常になんらかの形で表現されて続けています。
こうして墓を取り巻く歴史や状況を概観する中で、今一度認識しなければならないことは、今現に葬送儀礼が多様化しているということ、それ自体です。もう少し強調して言えば、儀礼という本来意味のないことが多様化しているという状況それ自体です。
実際には多様化しているといえどもカロート式のお墓を選ぶ人が大多数なわけですが、少なくとも儀礼という通常見直されないことによって担保される慣習という現象自体を見直そうとする人がおり、それがひとつのマーケットとなり思想的潮流となっているということは、やはりそこにはなんらかの時代の変化があるはずです。
これまでは社会構造的な必然性や個々人のレベルではそうした多様性はあったかもしれませんが、それが社会的な流れにまでなるというのは、おそらく物質的に豊かになった現代において初めてです。なぜならそもそも慣習というのは共同体を結束させるひとつの社会機能だったからです。つまり、グローバル化・情報化・市場化の下で共同体的価値が失われ、全ての選択が個々人において意図的に行われうる現代だからこそ、墓という本来まったくもって慣習的なものが多様になる素地が与えられ、私たちが墓というものを自ら選ぶという潮流が現れ、私たちなりに墓というものの意味を考える責任が課せられているということ、それが私たちの生きている現代にほかならないのです。むろん、これは墓に限ったことではなく、私たちが行う選択全てにおいて同じことが言えるでしょう。
多様化が墓という合理的観点から言えば意味を成さないものにまで及んでいるということは、それはすなわち人の幸福というものがまた大きく変化しているその途上にあるということを意味しているように思います。

これまで、ざっと日本の墓を外観してきたわけですが、そうした状況そのものを認識するかどうかは、これからの社会を形作っていく上で重要な視点になるのではないかという気がしています。

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