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【撃墜王】菅野直【デストロイヤーと呼ばれた男】

【撃墜王】菅野直【デストロイヤーと呼ばれた男】

更新日: 2015年05月08日

face1000さん

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菅野直

菅野デストロイヤー、イエローファイターと呼ばれる

菅野は敵機上方から猛スピードで急降下、敵の機銃ををものともせず至近距離まで接近して攻撃するという、捨て身の戦法で、B29と戦い続けます。菅野が乗る紫電改には黄色のストライプ模様があり、米軍パイロット達の間では「「イエローファイター」と怖れられていた

紫電改

1942年6月1日、少尉任官。同日第38期飛行学生を拝命。1943年(昭和18年)2月、飛行学生を卒業、戦闘機専修として大分海軍航空隊付。延長教育を受ける。教官の岩下邦雄は模擬空戦において訓練生たちの後ろを簡単に取ったが、菅野はぶつかるほどぐいぐい接近し、岩下が危険と判断して動きを緩めた隙に、反対に岩下の後ろを取った。

岩下は「菅野とは兵学校でも同じ分隊で、あんまり目立たない男でしたが、大分の空戦訓練で追躡をやっているときは、ぶつかるかと思うくらいグイグイ接近してくる。そのやり方がいかにも乱暴に見えて、その時の印象が強かったせいか、わたしには、何だかひどく乱暴な男のように思えましたね」と語っている。


菅野は、垂直旋回を訓練中のころに菅野は教科書を読んで勝手に宙返りを覚え、射撃の成績も優秀で、標的ギリギリまで接近して射撃した。菅野は、着陸事故の危険から着陸禁止になっていた滑走路に着陸し、機体が転覆して大破する事故が起こったが、菅野は咄嗟の判断で転覆する瞬間に頭部を守って脱出し、大怪我もなく無事だった。


飛行学生時、菅野は「菅野デストロイヤー」という渾名がつき、破天荒ぶりは他の航空隊にまで知られていた。香取穎男によれば、「学生のうちに四、五機は壊している」「九六艦戦を二、三機。ほかに零戦も壊した。いずれも着陸のときで、命取りになる離陸時の事故でないのがいかにも菅野らしい」という。宇佐空の岩井滉三は「菅野デストロイヤーの名が私のところまで伝わってきたことからして、大分では九六練戦を何機も壊したのではないでしょうか」という。

菅野は飛行学生時代の写真の裏に「stant(スタント)ハ終ワッタ」と書き残している。
1943年(昭和18年)9月15日厚木空付。1944年(昭和19年)2月第343海軍航空隊(「隼」部隊)分隊長。4月、南洋に進出。菅野は24機率いて木更津からテニアンへ空輸任務を行うが、途中ではぐれて不時着した機体があり、報告などを済ませた後に単機で捜索に向かった。整備分隊士の小林秀江中尉が誰か連れて行くことを勧めたが、列機が気にかかって見張りに集中できないと答えた。小林は「菅野さんに初めて会ったのは鹿児島基地だったが、もう勝手知ったという感じで大きな顔をしていた」「ロクでもない指揮官も少なくなかったが、菅野さんはまれにみる立派な指揮官だなと思った」という。
パラオで大型重爆攻撃機を迎撃する日々を送り、菅野は対大型爆撃機戦法を考案する。直上方から大型重爆攻撃機を攻撃する戦法で、前方高度差を1000メートル以上取り、背転し真っ逆さまに垂直で敵編隊に突っ込み死角となる真上から攻める。しかし敵との衝突を避けるため尾部を通っているとそこに弾幕を準備されたため、主翼前方を抜けることにした。敵銃座から射撃されない位置だが衝突の危険が高く、高い反射神経と恐怖に打ち勝つ精神力が求められる攻撃であった。この方法で列機と共に何機も落とし、菅野の機体の黄色のストライプ模様から米軍パイロット達の間では「イエローファイター」と渾名されて怖れられた[18]。後に菅野からこの戦法を伝授された森岡寛(同期)は「彼の教えてくれた前上方背面垂直攻撃は、302空でも訓練を重ねて昭和19年11月から始まったB29の邀撃戦に威力を発揮することになった」と語っている

二〇一空

1944年(昭和19年)7月10日343空解隊、第201海軍航空隊戦闘306飛行隊の分隊長に着任。
ダバオで部下の笠井智一らが憲兵隊長と喧嘩をして、201空に当事者の身柄引き渡し要求があったが、菅野は「そんな奴は知らない。部下は渡さない」と追い返した。要求は再三続いたが、201空からヤップ島派遣隊を出す際に菅野とともにその当事者らも編入された。7月10日から23日までヤップ島でアメリカ陸軍爆撃機B-24迎撃任務に従事。派遣隊は撃墜17機(不確実9)撃破46機の戦果を上げて一航艦司令長官から表彰を受ける。


この戦闘で菅野は、零戦に搭乗し、B-24の垂直尾翼に乗機の主翼を引っ掛けて吹き飛ばし、撃墜。また、一度に2機のB-24を撃墜した。対大型重爆攻撃機の戦法が用いられ効果を発揮した。松尾哲夫一飛曹、富田隆治一飛曹がB-29に体当たりして戦死し、菅野の進言もあり、1945年(昭和20年)2月1日、両隊員の二階級特進が認められた。


フィリピンで機銃弾を受けた際、麻酔なしで大腿部からの摘出手術を受けると希望して、痛みで途中一時中止したが、瞑想して気合を入れると、摘出して縫合を終えるまで表情を変えず一言も発しなかった。
10月、菅野の戦地勤務が長いため内地に一度戻す意味もあり、201空が受領する零戦52型のテストのために群馬県太田市の中島飛行機小泉製作所への出向命令が下る。菅野は大きな戦いに間に合わないかもしれないと抗議したが、認められなかった。受領した零戦をフィリピンへ持ち帰る際、間違えて別の基地に着陸し、そこの司令に叱責された為、菅野はエンジンを全開にしてプロペラの風圧で指揮所のテントを吹き飛ばし去って行った。


1944年(昭和19年)10月25日菅野と海兵同期の関行男大尉が神風特別攻撃隊指揮官兼「敷島隊」隊長として特攻。201空副長玉井浅一中佐は、その指揮官の選考の際に「菅野がいればな・・・」とつぶやいたという。菅野は関の特攻を聞くと「自分がいれば、関のところをとるんだったんだがなあ…」と寂しげに呟いた。また再三特攻に志願したが、技量の高さから直掩に必要なため、認められなかった。
10月27日第2神風特攻隊「忠勇隊」の直掩任務に志願する。戦果を報告した際、201空飛行長中島正から「戦果が大きすぎる、何か勘違いしていないか、レイテへ行って本当に体当たりをしたのか、本当に目撃したのか」など言われ、その発言に菅野は憤って腰の拳銃をそのまま5発、床に発砲した。笠井智一らもあの言いぐさはないと憤ったという。菅野自身の右足親指を銃弾がかすめたが、発砲は暴発の扱いで済んだ。菅野は特攻機の直掩・戦果確認を務める際はわれわれも特攻精神でいくと話し、直掩機の落下傘装備を禁止した。

搭乗員宿舎で酒を飲み特攻の憂さを晴らしていると、司令部から「やかましい」と苦情が来たが、菅野は「明日の命も分からない搭乗員に何を言う」と怒鳴り、黙らせた。
11月、セブに飛行機を空輸して帰る際、部下から特攻隊員を出すように要求されたが、拒否して部下を出すくらいなら自分がいくと主張した。セブ島の現地部隊に零戦を取られたため、中攻でマニラへ帰還することになるが、P-38に襲われ「もう駄目です、皆さん、諦めてください」と中攻操縦士が告げると、菅野が「どけ、俺がやる」と経験のない中攻操縦を交代して敵機の追撃を振り切りルバング島へ不時着、脱出直後、中攻は爆破された。ルバング島で救援が到着するまでの数日間、原住民に対して「俺は日本のプリンス菅野だ」と名乗り原住民の敬愛を集め、島の王様の様に過ごした。
次の任地が決まった菅野ら17名に対し、玉井浅一司令が特攻の招集をかけた。菅野は「移動が決まったんだ。もう行く必要はない」と引き留め、輸送機の手配を進めてフィリピンを出発した[。第252海軍航空隊に編入され、特攻兵器「桜花」の直掩任務につく予定だったが、桜花を搬送していた輸送船が沈没したこともあり中止になった。

剣部隊

1944年12月第343海軍航空隊(通称・「剣」部隊)の戦闘301飛行隊(新選組)隊長に着任。剣部隊という名称は、菅野と八木隆次の案が公募で選出された。菅野は景品の万年筆を加藤種男に譲っている。菅野は自分の紫電改に敵をひきつけるため黄色のストライプ模様を描いた。他の隊長もそれに倣った。


源田実司令は、菅野は勇猛果敢で戦術眼もあり、戦闘技量も抜群で、三四三空を編成する時に真っ先に頭に浮かんだ人物と語っている。副長の中島正中佐は、知将の鴛淵、仁将の林、猛将の菅野と評する。品川淳大尉(343空整備分隊長)は「最初に会った印象は傲岸不遜な男といった感じで、後から来た戦闘七〇一飛行隊長の鴛淵大尉や戦闘四〇七飛行隊長の林喜重大尉がきわめて紳士的だったのに対し、菅野は気に入らなければ、上級者といえども上級者とみなさないというようなところがあり、その意味では異色の存在だった」と語っている。

二番機も務めた田中弘中尉は「頭も腕もいい、短気な面があるがさっぱりしている」と評する。田村恒春は「闘志だけでなく緻密。空戦がうまく気風もよくて遊びも豪快」と評する。桜井栄一郎上飛曹は「気さくで階級にこだわらない人」と語っている。宮崎勇は菅野を剣部隊の3人の隊長の中で一番若く、やんちゃで豪気であったと評している。笠井智一は「敵を発見すると、電話で「こちら菅野一番敵機発見!」と知らせたとたん、列機のことなどお構いなしに、いきなりビューッと突っ込んでいく。勇猛果敢というか猪突猛進というか。それは凄かったですよ。二番機は困ったでしょうね」と語っている。



菅野は司令である源田実大佐に心服しており、小島光造(中学・海兵同期)は「菅野には既存の秩序に逆らってそれを打ち破ろうとしていたようなところがあった。だから規則にうるさい上司だったら、菅野は秩序を乱す不届き者として見られ、彼自身くさってしまったかもしれない。源田さんはその辺を見抜き、とにかく戦闘に勝ってくれればよしとして細かいことは一切言わなかった。菅野もそうした源田さんの知遇に応えて、戦闘では抜群の働きをした」と語っている[。源田も菅野を失った時は弟を失ったように感じたという。

菅野と隊員らが海軍クラブで騒いでいるとやかましいと何度も文句を言ってくる者がいるので、菅野は「何がやかましい」と襖を開けると少将と何人かの佐官参謀がいた。他の者が青ざめる中、菅野はテーブルの料理を蹴飛ばしその上に座り込んだ。少将が「もういいだろ、帰れよ」と嗜めたので帰ったが、翌日その少将が基地で源田司令と談笑しており、源田は菅野らを見ると「お前ら昨日は元気が良かったそうじゃの」と声をかけただけでその件は問題にならなかった。

また、菅野が宮崎勇を連れ無断外出をして温泉へ行った際、源田司令と温泉ではち合わせたことがあった。無断外出は明らかな違反行為で小さくなった2人に対し、司令は「温泉はいいのう、気をつけて帰れよ」と声をかけ咎めることもなく、菅野は「さすがオヤジ(源田の愛称)だ」と感心した様子だったという。

343空隊員と親しい今井琴子夫人によれば、菅野は「俺にカアちゃん(嫁)を見つけてくれよ」「ゆっくり落ち着ける家庭がほしいな」と言っていたことがあるという。相手はいくらでも見つかったが、菅野には自分がいつ死ぬか分からないので、残す妻を作るわけにもいかないという気持ちもあり葛藤しているようであったという。


源田実司令によれば、菅野は常に最前線で戦い、危ういところへ参入し列機を逃がす間、自身は最後までそこへとどまったという。また、三人の隊長(菅野、鴛淵孝、林喜重)は兄弟のように仲が良く、菅野は林と我慢比べをしてB-29の空襲下で退避せず談笑していたこともあったという。部下の笠井智一が怪我をした際には弟に対するように気遣い、怪我が治るまで復帰を認めなかった。また、空戦では故障機に乗った部下をかばいながら戦うこともあった。
剣部隊で源田の薫陶を受けた菅野は「特攻へは行かない」と話すようになり、フィリピンで特攻を指揮していた中島正が副長に着任した際、343空も特攻に使われるのかと不安が漂ったが、菅野が源田司令に働きかけて中島を早々に転任させた。

3月19日、343空の初陣である九州沖航空戦(松山上空戦)で、敵機1機を撃墜直後に自身も撃墜され、顔にやけどを負い落下傘降下して電線に引っ掛かり助かるが、敵と間違われ地元民に鎌で追っかけまわされた。
4月15日、菅野の部下である杉田庄一が戦死。杉田は菅野を慕い、菅野の悪口を言うものがいれば殴りかかった。

杉田が戦死した時、菅野は誰が見ても分かるほど落ち込んでいた。源田司令は菅野に杉田に劣らない僚機を迎えると約束したが、難航して菅野も気を使い「もういいですよ」と言ったが、司令はそれでは菅野も近く死んでしまうと感じ、武藤金義が編入されることになった。武藤は司令に「私が来たからには隊長は死なせません」と約束して守ったが、7月24日武藤も戦死した。
大型爆撃機 B-29の迎撃任務にあっては菅野の考案した対大型爆撃機の戦法で部下と共に多数を撃墜、敵から恐れられた。しかし、その高い危険性から林隊長、鴛淵隊長からは賛意を得られず、林大尉と口論になった。

第343海軍航空隊・通称「剣」部隊でしょう。太平洋戦争末期、エース級のパイロットと最新鋭の紫電改で編成された、本土防衛と制空権奪還のための精鋭部隊です。菅野は戦闘301・通称「新選組」の隊長として参画します。すでにこの頃、B29による爆撃は本格化し、米軍はいよいよ沖縄に迫っていました。

昭和20年(1945)3月19日、343空は初陣で敵機を松山上空で迎え撃ち、50機あまりを撃墜するという大戦果をあげています。中でも戦闘301新選組の活躍はすさまじく、菅野も敵機1機を撃墜しています。しかし乱戦の中で被弾し、菅野は落下傘で脱出。電線にひっかかっているところを、地元民に敵兵と間違えられ竹槍や鎌で追い回されたというエピソードが伝わっています。

しかし、この大勝利は日本海軍航空隊にとって最後のものとなります。菅野率いる戦闘301新選組は、その後も出撃をくりかえし、八面六臂の活躍をしますが、激戦の中で有能なパイロットを失っていきます。特攻隊についてはかつては自ら志願したそうですが、その技量を惜しんだ上層部はこれをを認めませんでした。いっぽうで部下の特攻は決して許さず、「部下を出すなら俺が行く」と、その戦法には批判的であったともいわれています。
昭和20年8月1日、戦闘301新選組は屋久島北方で九州に向けて北上する敵機の邀撃に出ます。しかし、菅野が乗る紫電改は機銃筒内爆発を起こしてしまいます。
「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」
この無線を聞いた2番機の堀光雄飛曹長が護衛にかけつけると、菅野は拳をつきあげて敵の攻撃に向かうよう指示します。去り際、堀は怒りの形相であった菅野の表情が和らいだのを見たと語っています。

「空戦ヤメ、全機アツマレ」
「ワレ、機銃筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番」
この入電を最後に菅野機は行方不明となります。

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