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【オカルト】祟り神のパワーは凄まじい

菅原道真さんが、一番、パワー強いと思う。私が思うのは、大事にされるべき人が粗末にされたり貶められたり謀られたりすれば、そりゃ大きな天罰返ってくるの当然と思う。これは、生きてる皆さんに戒めの意味も込めて作りました。実際あった話だし。人を泣かせたり苦しめる様な嫌がらせは、すべきではないですね。

更新日: 2018年11月18日

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momonga777さん

祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると信仰される神々である。

恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。すなわち御霊信仰である。その性質から、総じて信仰は手厚く大きなものとなる傾向があり、創建された分社も数多い。

素盞嗚尊によって退治された八岐大蛇などは代表的な祟り神

八岐大蛇から現れ出た宝剣天叢雲剣は三種の神器として神剣として祀られる。

非業の死を遂げ畏れられたもの、たとえば菅原道真や崇徳院、平将門は祟り神に部類される神として祀られている。

■八所御霊の祟り神とは?

粗末に扱うと祟りがくる。

①崇道天皇(早良親王)
②伊予親王
③藤原吉子
④橘逸勢
⑤文室宮田麻呂
⑥菅原道真
⑦吉備真備
⑧井上皇后

血筋もずば抜けていいですしパワーがあるので、粗末に扱うと凄い祟りが。私は菅原道真公の子孫があちこちの県にいる中、1人知っていたのですが、その方も霊感が強くて優しい方でした。

桓武天皇の実弟で、死後に怨霊と化したとされた「早良親王」の鎮魂のために創建された神社です。平安時代の人々を震え上がらせた怨霊を祀っていると考えると、また違った迫力が。

①崇道天皇=(早良親王)が怨霊化した理由とは?

無実の罪で捉えられ、死後に怨霊となったとされる「崇道天皇」を祀っています。

崇道天皇とは、第49代・光仁天皇の皇子で、平城京からの遷都を行った「桓武天皇」
の同母の弟「早良親王(さわらしんのう)」

母の身分が低かったため、幼いころに出家し、東大寺や大安寺で過ごしていたこともありました。このため都寺院の影響力の排除を狙って平城京から長岡京への遷都を推進していた
藤原種継の暗殺事件の首謀者として(無実なのに、つまりは策略にあってしまい)囚われ
皇太子の座も追われてしまいます。(早くいえば冤罪ですよ)

長岡京市の「乙訓寺」に幽閉された後、淡路国へ配流となりますが⇒酷い。

抗議のため絶食を続け、河内国高瀬橋(大阪府守口市の高瀬神社)の近くで
憤死したとされています。

(※つまり、何も悪い事をしていないのに悪人に仕立てられ、皇太子の座から粗末な罪人
扱いに頭にくるわけで、大憤慨しつづけて、激しい怒りのうちに死んでいったという事です。)

その後、桓武天皇の第1皇子(後の平城天皇)が発病したのを始め、嫁である妃や生母が病死
疫病が流行し洪水などの天変地異も相次ぐなど凶事が続いたため
これらは早良親王の祟りであると言われるようになりました。

800年には、生前に即位していないにも関わらず「崇道天皇」という追称を与えられ、
奈良市八嶋町の「崇道天皇陵」に改葬。

その近くに、早良親王を祀る八嶋神社を、奈良町に崇道天皇社を作るなどして、鎮魂に
努めました。

偉大な人物として知られる桓武天皇ですが、身近なライバルを排除してきたため常に怨霊の恐怖に悩まされました。早良親王などは、同じ母から生まれた実の弟です。そんな人物が無実を訴えながら、悶死したと聞けば、さぞ背筋が寒かったことでしょう。

また、全国にある「御霊神社」は、早良親王を始めとして藤原広嗣・井上内親王・他戸親王・橘逸勢など、死後に怨霊化したと考えられた方たちの魂を鎮めるために建てられたお社です。菅原道真を祀る天満宮も同様の意味を持ちます。

②伊予親王が怨霊化した理由とは?

「伊予親王 濡れ衣で叛逆の首謀者に仕立てられ、無念の死を遂げた皇子」

伊予親王は、第五十代・桓武天皇の第3皇子で父の寵愛を受け式部卿、中務卿などの要職を歴任し政治家としての素養も持っていた。ところが、皇位継承を巡る貴族との抗争に巻き込まれ
謀略にはめられ、叛逆の首謀者に仕立てられてしまった。

(この方も無実なのに、周りが妬んで足引っ張りの為に嘘やでっちあげで罪人に仕立てあげられた被害者ですよ。つまり冤罪である。)

そのため、伊予親王は幽閉先で飲食を断ち、親王という地位をはく奪された翌日、自ら毒を
飲んで、悲劇的な最期を遂げた。

(これ、可哀想。なんで親王様に泥つけて罪人にして社会的地位を奪うとか、こんな屈辱
無いですよ。そりゃ怨みながら死ぬと思う。怨霊になって祟るね。)

 伊予親王の母は藤原南家、藤原是公(これきみ)の娘、吉子。伊予親王は792年(延暦11年)元服し、四品(しほん)となり、次いで三品、式部卿(しきぶきょう)、中務卿(なかつかさきょう)などの要職を歴任した。政治家としての素養を持ち、管弦もよくし、父・桓武天皇の寵愛を受け、804年(延暦23年)には近江国(現在の滋賀県)蒲生郡の荒田53町を与えられた。806年(大同元年)、中務卿兼大宰帥に任ぜられている。

 ところが、翌807年(大同2年)伊予親王はいきなり、謀反を企てた首謀者として、母・吉子とともに大和国の川原寺(かわらでら、奈良県高市郡明日香村)に幽閉された。

後世、「伊予親王の変」とも称されるこの事件は、背景に皇位継承を巡る貴族との抗争があり、実は後に分かったことだが、伊予親王が陰湿な謀略にはめられたものだった。

母・吉子の兄・藤原雄友(南家)は大納言として右大臣・藤原内麻呂(北家)に次ぐ台閣No.2の地位あり、政治的にも有力な地位にあった。

そんなとき、伊予親王は異母兄・平城(へいぜい)天皇の側近だった藤原式家・藤原仲成に
操られた藤原宗成に 謀反をそそのかされた経緯を平城天皇に報告した。

 そこで、朝廷は藤原宗成を尋問したところ、宗成は伊予親王こそ首謀者だと自白した。
(逆の手に打って正当な方に汚れをかけたんだ。いるんだよね、こんな奴、保身のためにとか)

そのため、母・吉子と子・伊予親王は逮捕された。二人は身の潔白を主張したが、
聞き入れられず川原寺(弘福寺)に幽閉された。

絶望した母・子は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、自ら毒を飲んで、
悲劇的な最期を遂げた。

伊予親王には3人の王子女があったが、同親王が自害した後、いずれも遠流となった。
(えぇええええ島流しだったの。(>_<)

また、この事件を仕掛けた貴族たちも当然、重い処罰を受けた。藤原宗成は流罪となり、
伊予親王の伯父、大納言・藤原雄友も連座して伊予国に流された。

このほか、この事件のあおりを受けて中納言・藤原乙叡(南家)が解任された。

無実なのに罪をかぶせられ無念の死を遂げたこの母子は怨霊となった

二人を死に追い込んだ平城天皇は、この母子の怨霊に実際、悩まされ続けた。

平城天皇は呵責(かしゃく)の念で、夜中に度々出てくる伊予親王と、その母親の怨霊に
悩まされ続け、風病(躁鬱病(そううつびょう)にかかって、(精神状態がおかしくなる)
譲位の意を示し東宮に移ってしまった。怨霊から逃れるため遂に同母弟の神野親王(嵯峨天皇)に皇位を譲るまでに追い込まれた。

819年(弘仁10年)、伊予親王の無実が判明すると、遠流となっていた3人の王子女は
嵯峨天皇により、平安京に呼び戻された。

そして、没収されていた同親王の資産なども、王子女に返還された。

863年(貞観5年)に催された神泉苑での御霊会(ごりょうえ)では、
この母・子ともに祀られた。

怨霊を鎮め、怨霊から逃れるには、そうするしか術がなかったのだ。
(だって、悪くもない人が天命まっとうしたいのに、誰も死にたくもないのに
人生めちゃめちゃにされて罪人にされて、毒あおって親子で自害してるんですよ。
そりゃ、祟られるよ。私とか視えたりれーかんあるから、実際起きた事だと思います)

伊予親王の自画像は、ないんですよ。伊予親王の父親の桓武天皇の画像ならあったけど。

私も祟り神要素は、持ってる。神ではないけど・・・私を妬んで悪い事した人達は、必ず色んな凄い事が返っていってる。

私の父方の先祖、桓武天皇の子孫らしいけど桓武天皇の子孫は平家で後で北に南に落ち延びて、その地の名前に変えた桓武平氏もいる。母方の方も昔の皇族の血幾つか引いてるって聞いた。何もしらない霊能者にあなた一般の人と違うわよ。血が皇の血が強いって言われだから人から見た目とか能力をねたまれんのかな?って思った。

③藤原吉子が怨霊化した理由とは?

藤原吉子は、桓武天皇の夫人。吉子の父親は、藤原南家藤原是公(これきみ)そして
藤原吉子は、伊予親王の母。

無実の親子(藤原吉子と伊予親王)を死に追い込んだ平城天皇は、祟られてしまった訳だが

母子は、②でみると分かると思うのですが自害し、その後、更なる祟りを怖れた朝廷によって
復位・贈位がなされた(819年に復位、839年に贈従二位)

上御霊神社や下御霊神社などに祀られ、藤原大夫人と尊称される。

(きっと綺麗な夫人だっただろうなと思う。可哀想だね。)

正式には「御霊神社」といいます。
平安遷都にあたり延暦13年(794)桓武天皇が平安京の守り神として早良親王(崇道天皇)の神霊をおまつりされたのが上御霊神社のおこりです。
当時天変地異や疫病の流行があいつぎ、それは非運の中に亡くなられた高貴の人々のたたりであるとされ、その人々の御霊を丁重におまつりすることによって、災いをなくそうという御霊信仰が盛んになりました。

不運のうちになくなった「伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母「藤原吉子」の霊を

なだめるために承和六年(839年)に創建された。

④橘逸勢が怨霊化した理由とは?

延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。唐でも橘秀才としてその書才を賞められたという。

中国語が苦手で語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができないと嘆いている。
おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり大同元年(806年)の帰国後は
それらの第一人者となった。承和7年(840年)に但馬権守に任ぜられる。のち老いと病により
出仕せず、静かに暮らしていたという。

承和9年(842年)の嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで伴健岑とともに捕縛された。⇒(出鱈目風潮した奴バチ当たるわ)

両者は杖で何度も打たれる拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。(だって無実だから)

しかし、7月23日には仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、春宮坊が兵によって
包囲された。結局、大納言・藤原愛発や中納言・藤原吉野、参議・文室秋津は免官され、
恒貞親王は皇太子を廃された。

逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で伊豆へ

(え??これ酷くない?無実の人に姓を非人にするとか・・・えた・ひにん、みたいな
感じじゃない)

健岑は隠岐への流罪が決まった(承和の変)

橘 逸勢は伊豆への護送途中、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した。

60余歳という。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り
悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め
墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。⇒娘さん、えらいね。これで成仏出来たよ。
                     無実なのに父親可哀想うかばれないと思ったんだろ

死後、逸勢は罪を許され、嘉祥3年(850年)太皇太后・橘嘉智子の没後まもなく
正五位下の位階を贈られた。その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛されている
仁寿3年(853年)には従四位下が贈位された。仁安元年(1166年)には橘以政によって
伝記『橘逸勢伝』が著された。

また、無実の罪を背負って死亡した事で逸勢は怨霊となったと考えられ、
貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻呂・早良親王・伊予親王などとともに祀られた。現在も上御霊神社と下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。

⑤文室宮田麻呂が怨霊化した理由とは?

平安時代前期の官吏。

平安前期の官人。承和6(839)年従五位上 翌7年筑前守。
同9年には前筑前守となっており、この間任を離れているが、そのまま現地にとどまり
来日中の新羅の廻易使李忠らと折衝している。

翌10年、従者の陽侯氏雄から謀反を企てていると密告されたのは、(これもはかられて
しまった感じですね)

この新羅使との接触がかかわっているか?
京および難波宅の捜索を受け、兵具を押収され伊豆に配流
子の忠基(佐渡)、安恒(土佐)らもそれぞれ流されている。

のちに、無実であることがわかり、863年(貞観5年)に神泉苑の御霊会で慰霊されている。

同じ年、近江国に所有していた家10区、土地15町、水田35町が勅により貞観寺に施入された。

真相は不明だが、貞観5(863)年5月に行われた神泉苑御霊会では祭神(怨霊)五柱のひとりと
されており、当時の人々が宮田麻呂に同情的であったことが、うかがわれる。

⑥菅原道真が怨霊化した理由とは?

太宰府天満宮は、菅原道真公をまつる全国約12,000社の総本営であり、「学問・至誠・厄除けの神様」として、日本全国より約700万人の参拝者が訪れます。

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