1. まとめトップ

【オカルト】平将門の首塚の祟りとは?

平将門の祟りパワーは、菅原道真よりも凄い感じが。血筋も由緒ある人を貶めるとこんなに色々な事が起きるんですね。みんなも他人の墓だからで、失礼なことしちゃだめだよ。バチあたるからね。今の日本人は敬うという気持ちが薄くなってる気がする。他人をうやまう、大事に思う心を忘れたらいけない。

更新日: 2017年08月24日

2 お気に入り 23763 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

momonga777さん

平安時代中期の関東の豪族。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。

生誕 不詳
死没:天慶3年2月14日(940年3月25日)

別名 :豐田小次郎、相馬小次郎、滝口小次郎
   新皇

墓所 :東京都千代田区・将門塚(首塚)
氏族 :桓武平氏、房総平氏
父:平良将
母:県犬養春枝女

兄弟:将持、将弘、将門、将頼、将平、将文、
   将武、将為

妻 :正室:平真樹の娘・君の御前:平良兼の娘
側室:藤原村雄の娘?・桔梗姫など

平安時代の武将(平家=へいけ)

京で藤原忠平と主従関係を結び武士としての出世を願うが父の急死により帰郷。ところが帰ると叔父の平国香らが父の遺領を勝手に相続していたため、平将門の乱を起こす。

出典はてなキーワード

その後、下総の猿島(茨城県)に独立国を立ち上げようと画策したが平貞盛や藤原秀郷らによって討死。

出典はてなキーワード

平将門とは?

①平家一門の祖先。
②奥州藤原氏の祖先とされる。

出典はてなワールド

私、平家も源氏もどっちも血が入ってるよ。だから下手に霊力あんのかな?

平安京に遷都したあの桓武天皇のひ孫にあたる高望(たかもち)王が“平”という姓を賜って上総の国に下り、その地を治める受領となりました。(地方のその土地に住んで行政をするのを受領、京の都にとどまったまま行政をするのを国司と言います)この高望王の孫が平将門(たいらのまさかど)です。

出典@ニフティココログ

やがて常陸(ひたち)国府、下野(しもつけ)国府、上野(こうずけ)国府を攻略しますが将門自身には「朝廷に取って代わろう」という意志はありませんでした。

出典@ニフティココログ

将門が、敵としていたのは、あくまでその地を治める国司や受領であり、彼らを派遣する朝廷ではなかったのです。当時は、新しく赴任した国司や受領がその権力を傘に着て、横暴な振る舞いを重ねていました。

出典@ニフティココログ

見回りと称して一般の民家に押し入り、めぼしい金品を奪うといった行為が当然の事のようにまかり通っていたのです。根っから親分肌の将門が困った民衆や豪族に「何とかして~」と頼られる→相手をいさめに行く→相手は兵を出して抵抗する→強いから勝っちゃう・・・簡単に言えばこんな構図です。

出典@ニフティココログ

事実、この時点でも将門は、摂政・藤原忠平に「領国は奪い取りましたが、忠平さんへの恩義は忘れてませんよ」という内容の手紙を送っています。やがて、東国一帯に勢力を広げるにあたって“新皇(しんのう)”を名乗り、国守や役人を自らが任命し始めます、

それでも、まだ、将門には朝廷を倒す気持ちは無かったのです。

しかし、ちょうど時を同じくして西国・瀬戸内でも藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を起こしていて(6月20日参照>>)、京の都では、「東の将門は、西の純友と共謀して反旗をひるがえし、同時に上洛するつもりではないか!」と、もっぱらの噂になり、公家たちは毎日怯えて暮らす事になります。 こうなると、朝廷もじっとしてはいられません。

出典@ニフティココログ

将門の行動を国家への反逆とみなした朝廷は、藤原忠文を征東大将軍に任命し、東海・東山道に「将門追討」の命令を下します。

それに応じて兵を挙げたのが、平貞盛(さだもり)&藤原秀郷(ふじわらのひでさと・俵藤太)の同盟軍。

天慶三年(940年)2月14日、午後2時頃、強風の中、同盟軍が将門の陣営を襲う形で、激しい戦闘が始まります。

風下に陣を取った将門軍は、有利に駒を進め、同盟軍の中陣を撃破・・・勢いづいて、そのまま追捕を続け、同盟軍は敗走します。勝利に沸く将門軍。しかし、将門軍の多くは直属の武士ではなく将門を慕って集まってきた近隣の豪族や農民でしたから勝利を確信した将門は、ここで一旦彼らを家に帰してしまいます。

出典@ニフティココログ

あぁ油断した。

その事を敏感に察知した同盟軍は、すくさま反撃を開始。

急に風向きが変わり、戦況も一気に同盟軍有利に向き始める中、将門自らが先頭に立って激戦が繰り広げられます。そんな時、事態の幕切れはあっけなく訪れます。
秀郷が放った1本の矢が、「全身が鋼鉄の体である」と噂された将門の唯一の弱点こめかみを貫きます。

出典@ニフティココログ

こめかみって目と耳の間らへんでしょ、痛かっただろうな。

翌日には、「将門討伐」の報告が朝廷に伝えられ、朝敵・将門の首は4月の終わりには都に届けられました。

将門の怨霊伝説はここからが始まりです。

戦の後、将門の首は京の都へ運ばれ、見せしめのために七条河原で晒し首にされるのだけど、不思議な事にその首は何日経っても腐らず、それどころか、夜な夜な怪光を発し、「体を返せ!もう一度一つになって戦を起こそうぞ!」と叫び続ける始末だった。

この人も謀られた感じがありますね。そこまでしなくてもって思います。なんで首を晒すんだろ。これはまだ絵だから見せられるけど昔は、残酷ですね。

しかし、いつまでたっても、生首が腐れなかったそうです。これは、死してもなお、魂が宿っているからでしょう。死んだって思ってないんですよ。あっけなく終わって、まだまだ戦えたと思って納得いってないんですよ。

そして平将門の首が空高く舞い上がり胴体を求めて東の空に舞い上がり飛んでいきました。(すごいパワー)

まとめ作者のmomongaは、霊感つよいんだけど、魂って
ほんと↑こんな感じです。まともに見た事あるから。
なんか煙みたいなかんじので、こんなかんじ。 それは自由自在に飛べて動けて
感情がしっかりありますよ。生きてる人はねひたいの奥々にこれがあるわ
死ぬ前に魂が、出ていって抜けてから、しぬよー

そして生首が、力尽きて落ちた場所が、東京の神田橋のたもと。人々は“神田明神”を建て丁重に葬ります。

首と胴体が出会うあとわずかというところで首は力尽き、地上に落下した。

1 2 3