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ジョン・マケインという男の凄まじい経験 なぜ彼は国旗に敬礼できないのか

オバマに敗れた共和党の大統領候補であり、安部首相のアメリカ議会上下両院演説の立役者でもある、ジョン・マケイン上院議員。アメリカには軍人出身の政治家が数多くいますが、ここまでタフなエピソードを持つ人物は少ない。

更新日: 2015年05月11日

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henkoreさん

アメリカの政治家には、軍人として英雄的な活躍をした人物が多くいます。
ケネディー大統領は太平洋戦争で日本軍との戦いから仲間を救い、2015年現在の国務長官ジョン・ケリーもベトナム戦争で幾つもの勲章を得ています。他にも、パウエル元国務長官や日経のダニエル・イノウエ元上院仮議長など、アメリカ国民に強く支持された政治家は数多くいます。
第二次世界大戦、ベトナム戦争という徴兵の歴史を持つこと、そしてなにより軍人が英雄たれる国民的な雰囲気が、日本では考えにくい軍人出身者の政治家を生み出す土壌でしょう。

そういった英雄的な軍人経験者の政治家のひとりがジョン・マケイン上院議員です。

下院・上院を経てきた共和党の重鎮で、イスラエル支持・ロシア排除などを公言するタカ派ながら、自身の経験から捕虜への拷問を強く批判し、一匹狼と呼ばれることもある個性的な人物。彼の政治的なスタンスは、しばしば問題視されながらも、大統領選の代表に選ばれるなど多くの支持者がいます。

日本との関係では、安部首相のアメリカ議会上下両院演説実現に大きな役割を担ったことなどからも、伝統的な共和党イメージを体現する面もあります。

共和党の重鎮議員だが、党派にとらわれない議会活動で知られ、しばしばmaverick(一匹狼)と形容される。

そんなマケイン上院議員は、軍人出身者として凄まじい経験を持っています。

彼はベトナム戦争で5年もの間捕虜となり、拷問に耐え、生還しました。そして拷問の後遺症を持ちながら政治家となり、大統領候補にまでなりました。

海軍エリート軍人一家に生まれて

マケインの祖父と父は、どちらも非常に名を残した海軍軍人です。
ちなみに祖父・父・マケイン本人、そして彼の息子まで、全員名前は「John Sidney McCain」で、"シニア"や"ジュニア"、"ジャック"といった愛称などで区別されています。

太平洋戦争を戦った提督のひとりであり、息子共々駆逐艦や軍施設に名前を残す。
判断ミスから更迭を受けるが、終戦直後に心臓発作で亡くなった。

「Mr. Seapower」と呼ばれ、強い政治力を発揮した海軍大将。対ソなど反共に大きな影響力を持った。
自分の父同様、心臓発作で死去。

1936年8月29日、パナマ運河地帯にあるCoco Solo Air Baseで、スコットランド・アイルランド系の海軍大将ジョン・S・マケイン・ジュニアと、ロベルタ・マケインとの間に生まれた。マケインの父も祖父もアメリカ海軍大将である。祖父のジョン・S・マケイン・シニアは航空母艦戦略のパイオニアであり、第二次世界大戦における太平洋戦域の指揮をとり、アメリカ軍をレイテ沖海戦等に導いた人物である。その功績から米海軍イージス駆逐艦の艦名の一つにもその名が採られている。

10歳になるまで、父親の仕事の都合でコネティカット州ニューロンドン、ハワイ州パールハーバー、その他の太平洋の基地で育った。1941年のパールハーバーの攻撃以降、父親は長い間家族と離れることになった。マケインは当時、短気で乱暴な運転をする若者であった。

結局、青年時代に、父親の仕事の都合で20もの学校に通った。1951年にエピスコパル・ハイスクールに通いはじめ、レスリングで2つのレター表彰を受けた。当時のニックネーム "Punk" や "McNasty"から分かるように、激しく議論好きな気性で知られていた。

祖父・父と同じ海軍士官に

マケインは反体制的な士官候補生で、目立たない存在であった。また、教授や指導部と喧嘩することもあり、毎年100以上の罰点を受けた。

5フィート7インチで127ポンド(170cmで58 kg)と小柄であったがライト級のボクサーとして3年間戦い、技術面で欠けていたものの、恐れを知らず、「後退ギアを持たない」ことで知られていた。

マケインは1958年に無事に卒業した。成績は899人中894番目で、最下位から数えて6番目であった。

マケインは卒業後に海軍少尉に任命され、2年半の間フロリダ州とテキサス州で A-1 のパイロットとしての訓練を受けた。当時のマケインはシボレー・コルベットを運転し、ストリップダンサーとデートをし、後に本人が語るところによると「概して健康と若さを誤用した」時期を過ごした。彼にはマニュアルを勉強する忍耐力がなく、平均より下のパイロットであった。また、テキサスでの演習中に墜落したこともあったが、大きな怪我をせずに脱出することが出来た。

1966年12月にはA-4のパイロットとして空母フォレスタルに任命され、地中海や大西洋を飛ぶようになる。この間、マケインの父親は1958年に海軍少将に、1963年には海軍中将に、1967年5月には在ヨーロッパアメリカ海軍最高司令官(Commander-in-Chief, U.S. Naval Forces, Europe)にまでなっていた。

ベトナム戦争 5年以上の捕虜生活と拷問

1967年春、 フォレスタルはベトナム民主共和国への爆撃作戦であるローリング・サンダー作戦(英語版)へ任命される。この作戦では特に武器貯蔵庫、工場、橋梁などのあらかじめ選ばれた基幹施設をターゲットとするものであったベトナム人民軍はソ連製の高射砲で応戦してきたため、この任務は危険なものであった。
最初の5回の爆撃では何事も起こらなかったが、次第にマケインはパイロットとして評価されるようになっていく。しかしマケインや他のパイロットたちは国防総省からのマイクロマネージメントに不満を抱くようになっていた。

その頃までに少佐となっていたマケインは、1967年7月29日に起きた出来事で危うく死ぬところであった。その日、クルー達が離陸の準備をしていたところ、F-4から一発のズーニー・ロケット弾が誤って発射されてしまった。出発準備を整えていたマケインの A-4にロケット弾が直撃し、燃料タンクの破裂を引き起こした。
事が起こってから90秒後に彼の機の下についていた爆弾が爆発したが、彼はその前に間一髪で機から逃げ出すことが出来た。
彼は爆弾の金属片で足や胸に怪我を負ったが、この事故で132名が死亡、62名が負傷、少なくとも20の航空機が破壊され、事態が沈静化するまでに24時間を要するという大惨事となった。

1967年10月26日、マケインはハノイの火力発電所の攻撃に参加した。マケインの乗ったA-4はS-75によって撃ち落とされた。マケインは両腕を骨折し、航空機から脱出の際に足にも怪我を負った。パラシュートで脱出したものの、チュックバック湖に落ち、あやうく溺れるところであった。

マケインが意識を取り戻してみると、彼の周りには暴徒が集まっており、彼を叩いたり蹴ったり、服を引きちぎったりしていた。またライフルの台尻で肩を砕かれたり、銃剣で左足や腹部を突かれるなどした。

マケインはその後、ハノイの捕虜収容所に搬送された。重傷を負っていたにも関わらず、ベトナム民主共和国側は彼を病院に連れて行かず、いずれにしろすぐに死ぬだろうと考えていた。ベトナム民主共和国側はマケインを殴打し尋問したが、彼は自分の名前、階級、認識番号、生年月日しか明かさなかった。その後、ベトナム民主共和国側はマケインの父親が海軍大将であることを知り、彼に医療処置を施し、マケイン捕縛を公表した。マケインが撃ち落とされて2日後、この出来事はニューヨークタイムズ紙のトップ記事となった。

マケインは6週間の間病院で最低限の治療を受け、またヴォー・グエン・ザップを始めとする多くのベトナム人の監視の下、CBSのリポーターからインタビューを受けた。多くのベトナム民主共和国の人々は、マケインは政治的・軍事的・経済的なエリートであると思っていた。その時点で50ポンドも体重が減り、ギプス姿で髪の毛も白くなっていた。

マケインは1967年にハノイの戦争捕虜キャンプに送られ、他の二人のアメリカ人捕虜(そのうちの一人は後に名誉勲章を受けるバド・デイであった)と共に監房に入れられた。二人はマケインが1週間持つとは思っていなかったが看病し、マケインはなんとか生き延びた。

1968年3月には独房に監禁され、そこで2年間耐えた。1968年7月、マケインの父親はアメリカ太平洋軍の司令長官となり、ベトナム戦域すべてを指揮する立場となった。それに伴いマケインはすぐに釈放されるチャンスを与えられた。ベトナム民主共和国側はそれによって、自分たちの部隊は人道的であるというプロパガンダを世界に広めたいと考えていた。
しかし彼は、アメリカ合衆国軍の行動規範 "first in, first out" にしたがってこれを拒否、自分より早く捕縛されているものが釈放されるなら受け入れるとの態度を示した。マケインの釈放拒否はパリ協定の話し合いの場でアメリカ側の大使W・アヴェレル・ハリマンに伝えられた。

1968年8月、マケインに対する拷問が行われた。痛みを伴う姿勢で縛られたり、2時間ごとに殴打されるなどし、更に赤痢にもかかってしまい、辛さ故に自殺を図るも看守に止められた。
4日間の拷問の後、マケインは、自分は "black criminal" で "air pirate" であると書かれた反アメリカプロパガンダの”告白”に署名させられた。しかし彼は形式ばった共産主義の専門用語を使ったり、英文法を無視して書くなどして、これは強制されたものであることが分かるように書いた。

ベトナム民主共和国側はもう1つの文書にもサインさせようとしたが、マケインはこれを拒否し、その結果殴打が続くことになった。他のアメリカ兵にも同じような拷問が行われた。ある時、戦隊のメンバーの名前を言うように強要された時、マケインはグリーンベイ・パッカーズの選手の名前を告げた。

彼は後にこう語っている。「私は学んだ。すべての人に限界点があるということだ。あのとき私は自分の限界点に達した。」

マケイン氏は拷問の後遺症で、両腕を高くあげられない(「だからしたくても国旗に敬礼できない」とトンプソン氏)。解放されたとき、右膝が曲がらなかった。

結局、マケインはベトナム民主共和国の捕虜として5年半を過ごしたことになる。1973年1月27日にパリ協定が結ばれ、アメリカ軍のベトナム戦争への関与は終わったが、捕虜たちに対する救出作戦(Operation Homecoming)はその後も続いた。マケイン自身は1973年3月15日に釈放された。

一方、1969年12月、マケインが北ベトナムで捕虜となっている間、妻キャロルが交通事故に遭い、瀕死の重傷を負っていた。

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