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【衝撃】本能寺の変は秀吉のねつ造!?という驚きの真実

本能寺の変は明智光秀の単独犯ではなかった!秀吉と家康が絡んだ勝手なストーリーだったとは...

更新日: 2015年05月16日

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信長、家康、光秀の「歴史」は、すべて秀吉の捏造だった!嘘だらけの「本能寺の変」

光秀の恨みで信長を殺した定説に疑念をいだき、約50年間に及ぶ研究を続けてきた。
『本能寺の変431年目の真実』(文芸社文庫)が、発売から1年4カ月が経過してもなお売れ続け、27万部を突破する驚異的な売れ行きを見せている。

ここを疑ったことなかったなー 信長、家康、光秀の「歴史」は、すべて秀吉の捏造だった!嘘だらけの「本能寺の変」(Business Journal)- Yahoo!ニュース zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=2015…

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本能寺の変、裏切りにつぐ裏切りの中、掻い潜ってきた信長さまがついに敗れたのかと思うと変な声でる #ネタバレカモナ

本能寺の変とは?

出典ameblo.jp

1582年6月21日(天正10年6月2日)、備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようとしていた織田信長に対して、先発させた家臣明智光秀が謀反を起こして丹波亀山城から引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃したクーデター(事変)である。

光秀が反旗を翻したハッキリとした原因は色んな仮説があり、日本史上の大きな謎の1つ

明智さんの新しい定説とは!

この計画を聞いた光秀は、ゆくゆくは明智一族も滅ぼされると思い...家康との談合の末、織田家打倒を決意。

では、何故光秀の恨み説が世に出回ったのか...

秀吉は信長を裏切った光秀を成敗した武将として名をあげ、権力者の地位に収まる魂胆だった。
何ともおそろしい話...
最終的に一番の恩恵を受けたのは秀吉

定説は時の権力者・秀吉が、自分に都合の良いストーリーを組み立て、それに合わせてさまざまな文献の書き換えも行われ、利害が一致した家康もそのストーリーに乗り、後の時代に尾ひれがついて出来上がったものと考えられる。そして後世の学者も、なぜかそこへ乗ってしまったというのである。

色んな黒幕説もささやかれる

信長は神を称し、征夷大将軍までも辞退するなど好き放題。厄介な存在であることは確か。武力を持たない天皇・公家が乱世を終わらせることも願い、うまく明智光秀を利用した説

信長の南蛮趣味や古きものを壊していく政治に対しての反感は常に抱いていた。光秀にとっては信頼できる人物でチ近い存在であり、後ろで糸を引いていた可能性もあると言われる。

足利最後の将軍。そもそも政権を信長に奪われ、良いように丸め込まれた男。ただ信長の監視下にありながら、浅井・朝倉・延暦寺・本願寺・武田・紀伊雑賀・丹波波多野などによる反信長連合軍(包囲網)の裏の盟主的存在だっととも言われています。この事件でも策略をこっそり策略を立てていたかもしれない。

歴史文献などでは商人は影に埋もれて表にはでないですが、昔から、堺衆や千利休が秀吉や光秀をそそのかして信長を討ったという説は根強くあります。絶大な経済力をもってバックに潜んでいたことも考えられなくもない。

明智光秀とは人物だったのか

宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』には「(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を処するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と言われてる

いずれにしろ、光秀が起こした事件であることには変わりなく、戦国時代の重要なキーマンであることには変わりません。

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