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【歴戦の勇士】徳川家康を支えた徳川四天王とは 本多忠勝、井伊直政、榊原康政、酒井忠次

徳川家康を創業期から支え、天下取りに貢献した功臣、徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政)について紹介します。

更新日: 2015年05月27日

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戦国時代~江戸時代初期の間に、徳川家康へ仕え活躍した重臣四人(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)のこと。

豊臣秀吉が羨んだ徳川家康の家臣団。その筆頭ともいえるのが「徳川四天王」である。家康に采配を教えた酒井忠次、武勇で戦局を一変させた本多忠勝と榊原康政、そして、赤備えを率いた井伊直政……。

家康を三河時代から支えた宿老

1527年~1596年
幼名:子平次、小五郎

徳川四天王の中では最年長、筆頭に数えられる

家康が人質となって今川義元のもとにいた時も、彼はそばに仕え、身の回りの世話をしていたと言います。

忠次は三河一向一揆、三方が原の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦い・・・等、徳川家の重要な戦いで数々の武功を挙げています。

特に1575年の長篠の戦いでは、織田信長に武田方への夜襲を献策し、落城寸前だった長篠城を救出するという大手柄を挙げて信長を感嘆させた。

ある時、徳川家康の嫡子信康に嫁いでいた五徳姫が、父織田信長へ信康とその母に武田家との内通の疑いがあると報告した。信長は家康に対し、この真偽を詰問。

その弁明の使者として酒井忠次が選ばれ、信長のもとへといった。しかし、忠次はうまく弁護できず、結果信康と母築山殿は死罪と決まった。

家康が関東に移封された時、嫡男家次が与えられた臼井三万石は、当時、徳川四天王の他の三人が十万石規模であったことに比べて小禄でした。これに忠次が抗議した際、「お前も我が子が可愛いか」と信康事件の事をひきあいに出したという逸話が残っています。

家康に過ぎたるものと言われた名将

出典ameblo.jp

1548年~1610年
幼名:鍋之介 通称:平八郎

57度の合戦に参戦するも、一度も手傷を負わなかったと言われる名将

※本田と誤表記されやすいですが本多です。

幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した

その後も永禄4年(1561)7月の鳥屋根城攻め、永禄6年(1563)の三河国一向一揆の鎮定戦などに従軍、永禄9年(1566)には騎馬50騎を任され、永禄12年(1569)には一手役の将となった。

元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して無謀とも思える単騎駆けを敢行。そしてこの時必死に忠勝を救おうとする家康軍の行動が反撃となって朝倉軍を討ち崩した。

人物の評価として「徳川には過ぎたるものが二つあり、唐のかしらに本多平八」と称賛

「唐の頭」とは当時きわめて珍しかったヤクの毛皮で飾られた兜のことで「本多平八」はいうまでもなく忠勝である。

世に名高い「神君伊賀越え」であるが、このときにも忠勝は信長の敵討ちをしようと血気にはやる家康をとどめ、一同の先頭に立って振りかかる危難をはねのけた。
そのため、家康も「無事に戻ってこれたのは忠勝のおかげ」と感謝の意をあらわにしたと伝わる。

武勇ばかりが際立って目立つが、桑名藩の藩政では大規模な町割りや城郭の増改築などを積極的に行ない、実質的に桑名藩の藩政を確立した名君でもありました。

井伊の赤鬼(赤備え)の異名を誇る猛将

1561年~1602年
幼名:虎松、万千代 通称:兵部

四天王の中では最年少
四人の中で唯一三河時代からの古参ではない

徳川四天王の中では飛び抜けた年少者であるが、その卓越した武勇・忠節・才覚・美貌などから家康に特に気に入られていたと言われている

井伊直政は、1561年2月19日、今川氏真の家臣・井伊直親の嫡男として、遠江国 井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で誕生した。幼名は虎松。

父・直親は、直政の生まれた翌年に謀反の嫌疑をかけられ今川氏真に誅殺される。

井伊氏は井伊谷の所領を没収され、2歳の直政も殺されようとしたが、寺にかくまわれながら一命をとりとめた。

信玄の幕下にいた山県昌景が旗・幟をはじめ武具・甲冑まで赤一色の武装にして先鋒をつとめていた「赤備え」を、直政はそのまま踏襲した。この140人の甲州武士団こそ「井伊の赤備え」として直政を不動の地位に押し上げる原動力となった。

1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は家康の4男・忠吉の補佐役を務め、東軍の先鋒を任されていた福島正則を出し抜いて先鋒となり戦いの口火を切った。

しかし、合戦終盤、敗軍の追撃戦のなかで熾烈を極めた島津軍の撤退で、直政は追撃中に敵の銃弾を肩に受けてしまいます。すぐに治療がなされましたが、経過は思わしくなく、合戦から1年半たった頃に直政は亡くなりました。

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