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拉孟・騰越の戦いの玉砕!援蒋ルート遮断で1300名の日本兵が玉砕した歴史

日本軍は、細かい補給計画をあまり立てないままに戦争を行いました。拉孟・騰越の戦いで1300名の兵士が送り込まれて、玉砕に追い込まれました。

更新日: 2017年08月05日

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misukiruさん

硫黄島などの孤島において玉砕したケースは多いが、この戦いは大陸において玉砕した珍しいケースとして知られる。

◆大陸における玉砕

日本軍を撃退しに向かいインパール-コヒマ間の路上を進撃する、M3中戦車を伴ったグルカ兵

◆中国の援蒋ルートの遮断作戦

ビルマから中国に補給するのが『援蒋ルート』とされ、米英などが蒋介石を援助していた事からこの名前が付けられています。

中国軍が敗走の途中で恵通橋を爆破して、「援蒋ルート」の遮断に一時的に成功。

援蒋ルート遮断後も空輸によって中国軍への支援が継続されたため、連合軍の指導によって近代的な兵力を身につけた中国軍が1944年より反撃

雲南省の昆明から怒江を通じて、補給路がありました。

◆中国軍48000 VS 旧日本軍1000人の戦い

軍隊というものは、戦闘する兵士が必要である事は間違いないのですが、それ以上に補給兵士など後方で活動する兵隊が重要な役割を果たします。後方部隊がいない中で戦う事は、ほとんど不可能な事でした。

拉孟ラモウは「松山」廃村にある。そこは怒川の西岸、恵通橋を眼下に見下ろす海抜2000メートルの山上にある。

拉孟の守備側の陣地は、良い所でもドラム缶と鉄板という全く粗末なものでした。日本側としては、強度が非常に悪いものでした。

30倍以上の敵の包囲の中で120日も陣地を死守したのは世界の戦史にも例がない。

負傷した兵を除くと、まともに戦える戦闘員は実質1000名に満たなかった。 一方、拉孟を包囲した敵戦力は、蒋介石の直系栄与第1師団を中心とする5個師団。

拉孟の部隊は砲兵連隊であったが、日本陸軍のどの部隊もそうであったように、白兵戦にも極めて強く、攻撃するたびに敵は大損害を被った。

「拉孟の戦い」は、主要な場所に複数の陣地が構築されていました。

9月7日をもって全戦闘は終結した。1300名の兵力のうち、残存兵力はゼロ、すなわち玉砕であった。

日本から遥かに離れた、雲南省のこんな場所でよくもまあ戦いを行ったなと思います。

まわりの壕の中には、片付ける暇もなくそのまま放置されている戦死者の遺体がごろごろと横たわっている。

慰安所が設置されましたが、衛生状態が非常に劣悪なもので、髪はぼさぼさで哀れな状態です。20名の慰安婦がおり、15人が日本人、5名が朝鮮人で、右端のおなかを抱えた彼女は朴永心さん、当時23歳、2006年85歳で故郷の北朝鮮にて逝去しています。

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