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【日本のゴーギャン】ほとんど知られていない田中一村が分かる5つのウンチク。

「田中一村」と言う画家をご存知でしょうか?知る人ぞ知る無冠の画家。「日本のゴーギャン」と呼ばれている孤高の画人です。若くして才能を認められたにもかかわらず、いくつもの苦難に見舞われ、中央画壇とは一線を画したまま、遠い南国の地で最期を迎えます。そんな田中一村を5つのウンチクでまとめています。

更新日: 2015年05月31日

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bawagさん

孤高の画人「田中一村」は絵筆一本の放浪の旅に出た。
画壇と決別し、向かったところは奄美大島。最期まで個展も開かず奄美を描きつづけたそうです。
そんな田中一村を見るための5つのウンチクを紹介していきましょう。

田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。

01.若いときは神童と呼ばれ、さまざまな賞を授賞している。にもかかわらず画壇から評価を得られなかった。

1908年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。
若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。

「現下聖代の画壇に、各流派盛運を見るといえども、けだし南画をもって冠とす。これ東洋文化の精髄にして、本邦に伝わりしは徳川中期に過ぎざるも、遠くは支那の唐代におこり、連綿としてその真価は賞賛され、最近では西欧の画壇にさえその影響を与えている。しかし真の南画は、堂奥深遠にして凡者の至り得るところにあらず」
 「ここに奇跡ともいわんか。天賦の鬼才田中米邨画伯は未だ弱冠十九歳にして、巨匠呉昌碩の水準に及び、その画は神通自在、天馬空を走るがごとく、卓然として峙(そばだ)ち、見る者官展審査員といえども、皆舌を巻きて驚嘆す。真に不世出の天才児なり」

南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』

1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。

「美校を退学した米邨は、南画で身を立てる決意を固めた。中国大陸に留学して南画の勉強をしようという夢があった。しかし、借家暮らしの一家の家計では、これもかなわぬ夢であった」とのことである。

南日本新聞社編『アダンの画帖 田中一村伝』

23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。

奄美大島にいくまでの作品
1908年から1938年までの作品
白梅 牡丹図 倣蕪米 倣聾米 倣木米 倣鐡齋 農村春景 蕗の薹とメダカの図 ほか

1938年に千葉に移り、1958年奄美大島に行くまでの作品。
白い花(1947:青龍社展入選作)
花と軍鶏(1953:襖絵)
能登四十八種薬草図(1955:やわらぎの郷・聖徳太子殿天井絵)
千葉寺の春の作品シリーズ
ザクロ図
室戸岬、九里峡、由布風景、
ニンドウにオナガ(1956:奄美時代の絵を予感させる明るさと伸びやかさ)

1947:青龍社展入選作
奄美大島にいくまでの作品

ヤマボウシの白花とみずみずしい青い葉が画面一杯にひろがり、背後の霧のなかに竹藪の奥行がわかる。左下にトラツグミが背を屈めた姿勢で静止している。清新な林の香りが流れ出てくるような作品。これが一村が生前に作品を発表した唯一の機会となった。翌年には作品評価をめぐって龍子と対立し、けんか別れになってしまう。

1956:奄美時代の絵を予感させる明るさと伸びやかさ

02.奄美に移住して、大島紬の染色工として働きながら絵を描き続けるが、無名のまま生涯を閉じる。

1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。

一村は5年間働き、1967(昭和42)年夏に60万円の郵便貯金を蓄えていた。この資金で3年間、画業三昧の生活に入る。紬工場を辞める時「3年間絵を描いたら、またここで働きます」と挨拶したという。

『アダンの画帖 田中一村伝』(南日本新聞社編1995 小学館

カメラマンの田辺周一さんのホームページに在りし日の田中一村さんの写真があります。

「海神の首飾り」田辺周一写真集  
 LIVRE(リーブル出版)
    
1976年4月~1978年8月撮影

表紙写真は小笠原・父島

1977年5月、ボク達が奄美で出会った澄んだ目の老人が田中一村 だった

名瀬市の外れになるのだろうか、ちょっ
とした集落の突き当たり、100Mから200Mほどの山
並であろうか、その山裾に一村宅はあった。

1977年5月、当時奄美で陶工をしていた彼の誘いで、名瀬有屋の画狂老人、田中一村に三人で会いに行った。
その後私は8月にも奄美に行き、一村にあった。何とか彼を記録していきたいと思ったからである。
残念ながらこのもくろみは9月11日の一村の死で幕を閉じるのであるが、田中一村はこの時から僕たちの中に生き続けるのである。

「田中さん、写真を撮らしていただいてよろしい
ですか」と尋ねると「どうぞ」といってにこやかな
返事が返ってきた。
そのとき改めて見た一村の目は、少年のように
澄んでいた。

田辺周一  ホームページ ・・行雲流水の日々・・
http://www.hitotonoya.sakura.ne.jp/

「田中一村へのオマージュではないけれど、森の中から突然現れた野生の山羊を、僕たち三人は息を押し殺し見つめている。まるで一村が描いた奄美の杜の絵のように」

03.日本のゴーギャンと呼ばれて見直されたのは没後だった。

没後に南日本新聞やNHKの『日曜美術館』の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。

2010年9月12日放送 再放送:9月19日
田中一村 奄美の陰影

『初夏の海に赤翡翠(アカショウビン)』部分

一村の思い出を語る川村不昧さん

奄美の写真家・濱田耕作さん

出演  
小林 忠さん(千葉市美術館館長)  川村不昧さん(一村の親類)
奄美で亜熱帯の植物や鳥などを描いた日本画家の田中一村(1908-77)。生前に作品を公表する機会もなく無名のまま亡くなった画家の過去最大の展覧会が始まった。

一村は奄美で何を見て、何を描こうとしたのか。ハンセン病患者との交流や、遺品に秘められた謎、新発見のスケッチや関係者の証言も交え、知られざる一村の素顔に迫る。没後33年を経て明らかになる田中一村の真実とは?

生前はまったくの無名でありながら、死後十年足らずでこのように爆発的な人気を得た画家もめずらしい。日本画の伝統を超越してしまったような南国の動植物が織りなす幻想的な美と、貧に徹して己れの芸術に殉じた求道者ともいえる激しい生き方が、強く人々の心をとらえるからだろう。」

湯原かの子著『絵のなかの魂 評伝・田中一村』

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