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【第二次世界大戦】日本海軍の戦闘機まとめ【太平洋戦争】

第二次世界大戦時の日本海軍戦闘機まとめ。試作機は飛行試験にまで辿り着いたもののみ掲載しています。96式戦闘機から零戦、震電まで。

更新日: 2018年11月28日

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holy777さん

◆大日本帝国海軍航空隊

大日本帝国海軍航空隊(だいにっぽんていこくかいぐんこうくうたい)は、大日本帝国海軍の航空部隊である。海軍航空隊は海軍航空機の運用と航空戦の任務に当たった。

・艦上戦闘機

初飛行:1935年2月
生産数:1,094機

 日本の航空機を世界のトップレベルに引き上げた名機。設計者は後に零戦を生み出す堀越二郎。
 全金属製低翼単葉の機体に沈頭鋲や翼端捩り下げ、フラップの採用など日本初の試みを多く採用し、最高速度450km/hという同時期の欧米機を凌駕する性能を発揮した。
 その後エンジン不調などで実用化には1年以上掛かったが、日中戦争ではその軽快な運動性能により制空権を完全に掌握した。様々な制約のある艦載機が陸上機を超えたことでも航空史に残る名機であった。大戦時には後方部隊や予備機として使用された。
 ジブリ映画「風立ちぬ」は本機の開発の話がモチーフになっている。

初飛行:1939年3月
生産数:10,430機

 世界的にも有名な傑作戦闘機。設計者は堀越二郎。
 開発では九六式艦戦と同等の格闘戦性能に加え、爆撃機護衛の為の大航続力も求められた。また大口径の20mm機銃を装備し、様々な局面に対応できるマルチな戦闘機となった。
 徹底した軽量化による驚異的な格闘戦性能を活かし、日中戦争から太平洋戦争序盤まで無敵と言える強さを発揮した。
 しかし、大戦中盤以降は速度、防御性能に勝る米軍戦闘機が対零戦戦術を確立。一転して苦戦を強いられることとなった。後継機にも恵まれず、大戦末期には神風特攻に使用されることとなる。
 航空機としての生産数は日本史上最多である。

初飛行:1944年5月
生産数:8機

 遅すぎた零戦後継機。設計は堀越二郎。
 現行機の開発・改修に追われる三菱は多忙を極め、零戦の後継機開発は1942年に漸く開始した。しかし戦況の悪化や堀越の体調不良で開発は遅延。初飛行は1944年となった。
 誉エンジンの不調でテストは合格出来ず、海軍から開発中止が命じられた。三菱は自社実験機として開発を継続。エンジンを自社製ハ43に載せ替えたところ、624km/hの速度と零戦以上の運動性能を発揮。烈風11型として制式採用されたが、東海大地震や空襲により終戦までに完成したのは数機であった。
 防空用の高高度戦闘機「烈風改」の計画もあった。

・局地戦闘機(陸上戦闘機)

初飛行:1942年3月
生産数:621機

 海軍初の陸上迎撃機。設計は堀越二郎。
 日中戦争時に中国軍爆撃機の空襲に悩まされた海軍は、迎撃機(局地戦闘機)開発を三菱に命じた。
 火力、速度、上昇性能を重視し、大型ながら高出力の火星エンジンを装備。プロペラ延長軸を使い機体前部を絞り込んだ紡錘型の機体に仕上げた。
 完成した機体は異常振動問題や視界不良、着陸速度が高すぎるなどの問題が多発。墜落事故や堀越の体調不良により開発は大きく遅延した。
 1943年後半からようやく生産、運用開始。零戦と真反対の機体性能はパイロットからは不評であったが、600km/hの高速と重武装でB29迎撃に活躍した。

初飛行:1942年12月
生産数:1,007機

 水上機メーカーの川西航空機は陸上機製造業への参加を狙い、水上戦闘機「強風」の陸上型製作の許可を海軍から取り付ける。
 条件として期限は1年とされ、開発は急ピッチで進められた。エンジンを強力な誉エンジンに換装、再設計を最少とした機体は1942年完成。最高速度583km/hは計画値より低いものの、防弾装備や自動空戦フラップによる良好な空戦性能を発揮。零戦後継機不在を補うため、海軍は制式採用を決める。
 しかし量産後、機体に不具合が頻発。完成しても納品出来ない機体が山積みとなる。この不具合解消と性能向上のため、川西は紫電改の開発に着手する。

初飛行:1944年1月
生産数:約450機

 最後の日本海軍戦闘機。
 大量生産に入った紫電はトラブルが多発。これを根本的に解決するため、川西は設計を大幅に改めた21型を開発する。翼の位置を低翼型とし、全長を伸ばしたことで射撃安定性を向上。また部品数を2/3に減らし、生産性も向上した。
 1945年1月に制式採用された21型は「紫電改」と呼ばれた。海軍航空隊最後の精鋭部隊343空での使用が有名で、圧倒的優位な米軍に対し互角以上の戦いを繰り広げた。
 しかし、誉エンジンの不調は最大の弱点で最大出力で飛行出来ず、343空も徐々に戦力を削られ、その幕を閉じることとなった。

・夜間戦闘機

初飛行:1941年5月
生産数:477機

 海軍初の夜間戦闘機。
 爆撃機を護衛する遠距離戦闘機として開発されたが、大型の機体は運動性が悪く不採用となる。しかし零戦と同等の速度に長い航続性能を持っていたため、本機は二式陸上偵察機として採用されることとなった。
 1943年初め夜間爆撃機対策として斜銃(機体の上方または下方に30°前後の仰角を付けて装備された20mm機銃)を現地で追加装備。この改造夜戦で次々と米重爆撃機B-17を撃墜。海軍中央から改造夜戦の制式化内示が伝えられ、丙戦(夜間戦闘機)「月光」として制式採用された。
 末期には本土に来襲するB29迎撃にも使用された。

初飛行:1940年11月15日
生産数:2,253機(爆撃機型含む全数)

 海軍の航空技術研究機関である空技廠が開発した大戦後半の主力爆撃機。
 性能を最優先した高性能な機体であり、日本機では珍しい水冷エンジンを採用。
 最高速度550km/hと零戦以上の速度を出す高速機だったが、生産性と整備性に難があり、後に空冷エンジン搭載型も作られている。
 その高速を活かし夜間戦闘機に改造された機体が彗星一二戊型として採用。後部旋回機銃を廃止し20mm斜銃×1を装備した機体であった。また空冷エンジン搭載の三三戊型も少数存在する。
 低速が悩みだった月光の後継機として大戦末期の夜間防空に奮戦した。

初飛行:1942年6月(銀河に準じる)
生産数:97機(極光のみ)

 双発爆撃機「銀河」を夜間戦闘機にした機体。
 空技廠の開発した銀河は当時の先端技術を集めた高性能機であり、複数の任務を熟せる汎用性を持っていた。
 B-29の脅威が日本に伝わると、これに対抗するため川西航空機に銀河の夜間戦闘機への改造が命じられる。エンジンを火星に換装した他、電探や斜銃を装備し、夜間戦闘機「極光」として生産命令が下された。
 しかしエンジンの信頼性は上がったが、速度や上昇力が低下し、B-29相手には力不足であることが実戦で判明。結局、爆撃機仕様の「銀河一六型」に再改造されることとなった。

初飛行:1943年5月
生産数:398機(偵察型含む全数)

 日本海軍最速を誇る艦上偵察機。
 広大な太平洋を主戦場とする日本海軍は長い航続性能と高速を併せ持った専用偵察機を欲した。1943年に完成した機体は2000馬力級の誉エンジンと空気抵抗を減らした細長い機体形状、層流翼の採用などで600km/hを超える海軍最速の機体となった。
 その高速性能と高高度性能も良かったことから、B-29迎撃用として30mm機銃を操縦席後方に斜銃として搭載し、迎撃機として運用された機体もある。しかし終戦間近だったため、有効な戦力にはならなかった。

・水上戦闘機

初飛行:1941年12月8日
生産数:327機

 零戦の水上戦闘機型。
 海軍は15試水上戦闘機(後の強風)完成までの繋ぎとして、中島飛行機に零戦の水上機型試作を命じた。
 試作機は太平洋戦争開戦の1941年12月8日に初飛行。大きなフロートにより最大速度は435km/hに低下したものの、良好な操縦性など零戦譲りの性能を評価され正式採用された。
 実戦ではソロモン諸島やアリューシャン列島で配備され、敵爆撃機、偵察機迎撃に活躍した。また船団護衛任務もこなしている。
 水上機としては高性能の機体だったが、戦況が米軍側に傾くと敵戦闘機による被害が増加。大戦後期には後方支援や一部は特攻に使用された。

初飛行:1942年5月
生産数:97機

 紫電の元となった水上戦闘機。
 侵攻した島の防空を陸上基地完成まで担当する水上戦闘機として開発された。
 大型、大馬力の火星エンジンを搭載。空戦フラップなどを装備したが、速度は485km/hと要求値より100km/h近く遅かった。しかし、高い上昇力や空戦フラップを使った運動性などが評価され、正式採用される。
 1943年後半には部隊配備され始めたが、その頃には水上機が活躍出来る場は無くなっており、生産は97機で打ち切りとなった。
 後にこの機体を元として陸上機化した紫電、紫電改が作られている。

・試作機(不採用、開発中止、試作中に終戦など)

(写真は原型の一式陸上攻撃機)
初飛行:1939年10月
生産数:30機

 爆撃機の編隊護衛を狙った翼端援護機。
 当時、長大な航続性能の大型爆撃機を護衛できる戦闘機は存在せず、敵戦闘機の迎撃で大きな被害を受けていた。そこで防御火力を増強した翼端援護機と呼ばれる大型機で編隊を護ることが企画された。
 十二試陸上攻撃機(後の一式陸上攻撃機)の生産に先立ち、この機体から爆装を除去。胴体下面に20mm旋回機銃×2、主翼下面に防弾ゴムを追加した機体を完成させた。
 しかし重量増で一式陸攻と比べ飛行性能が落ち、編隊に随行出来ないことが判明。30機ほど生産された機体は全て練習機や輸送機に改造された。

初飛行:1944年7月
生産数:6機

 要求性能を満たせなかった対B-29迎撃機。
 高性能爆撃機B-29完成の情報を受け、海軍は迎撃機開発を中島飛行機に命じた。要求性能は667km/hの速度。良好な上昇力。20mmと30mm機銃各2丁の搭載。そして海軍機には珍しく、高い防弾性能も求められた。
 計画から1年2ヶ月後に試作機が完成。大馬力の誉エンジン2機を積んだ小型の双発単座機にまとまった。しかし誉エンジンの不調が酷く、速度は597km/h止まり。日本軍機共通の弱点だが、過小なプロペラ直径にも低速の一因があったという。
 一部は複座夜戦機として試験されたが、戦局の悪化により開発中止となった。

初飛行:1945年7月
生産数:5機

 ドイツのMe163を参考としたロケット戦闘機。
 1944年4月にドイツを出港した伊29号潜水艦はロケット戦闘機Me163Bの資料を積んだまま、バシー海峡で米潜水艦に撃沈されてしまう。しかし、一部資料はシンガポールから空路で日本へ届けられた。
 少ない情報を元に日本の技術で補完、完成させた機体は「秋水」と命名された。1945年7月に試験飛行に挑むが、上昇中にエンジンが停止、不時着大破。操縦士が死亡した。再試験は終戦には間に合わかった。
 最高速度800km/hを誇ったが、飛行可能時間はわずか約5分であった。本機に爆弾を載せた空中特攻も計画されていた。

初飛行:1945年8月
生産数:1機

 異形の高速戦闘機。
 空技廠の鶴野正敬大尉の発案で、エンテ型の高速戦闘機として開発が開始。エンジンを後部に装備することで、前部に機銃を配置し、機体スペースを有効活用出来た。30mm機銃×4を装備、エンジンは大馬力のハ43で750km/hの速度を出す計画だった。
 最初のテスト飛行ではプロペラが地面に接触してしまい失敗。応急処置として側翼の下に車輪を付けて飛行に成功した。3度のテスト飛行を行ったが、全力運転には至らなず終戦を迎えた。
 エンジン加熱やトルク問題など多くの根本的課題があったが、その未来的な姿からファンの多い戦闘機である。

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