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【戦国】マイナーだけどスゴイ!地域では著名な戦国武将まとめ2 猛将?編

有名じゃないけど逸話の残る戦国武将をもっと知りたい!地域では皆が知っているのになんで有名にならない?そんな戦国武将をまとめてみました。第二弾。今回は猛将、大力、怪力の類です。戦国最強は誰?

更新日: 2018年01月15日

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sakukenhiroさん

2016/12/09 清水政勝さんのところに四戰紀聞 「遠州味方原戰記」の記載の引用を追記しました。

2016/12/30清水政勝さんのところに金砕棒の由来(別個にまとめてリンク貼っておきました)を追記。

2017/01/02三浦義意、三浦義同さんのところに北条五代記より「道寸さんの首捩じ切り部分」を追記しました。

2017/01/03三浦義意、三浦義同さんのところに北条五代記の全文私訳を別途作っておきました。リンク貼っておきます。

2017/01/22清水政勝さんのところに「重修眞書太閤記」の大太刀使用部分の記載を別リンクで追記しました。

2017/01/30清水政勝さんのところに、清水太郎左衛門の乗馬である「甲斐の大黒(甲斐黒)」と「岩手月毛」を別リンクで追記しました。

また、友人より宣伝要請があったため、MMAブランド「ADVANTAGE」のリンクを貼りました。現代の豪傑と言ってよい総合格闘技のブランドのためサイズが豊富です。体ゴツ過ぎる自分も助かっていますwご覧あれw

三浦義意(みうらよしおき(よしもと)とも。) 三浦荒次郎 義國とも 「日本史上最大の巨漢」「八十五人力の勇士」  +父三浦義同(みうらよしあつ) 道寸

相模三浦家最後の当主。三浦氏は桓武平氏良文流。父義同が扇谷上杉氏より養子に入り、その家督を簒奪したため、一見三浦氏の血は入って無いように見えるが、義同母は大森氏頼と義同の先々代高明の娘の子であり、義同の妻、つまり義意の母も三浦氏の一族横須賀連秀の娘である。はっきりと三浦氏の血は女系で受け継がれている。

この方…けっこう有名になって来てるのですが、活躍時期が戦国初期に当たるため、未だ父義同と共にまだまだ知らない方も多いので上げさせて頂きました。おそらく…文字通りの「戦国最強」の逸話を持つ武将と言ってしまっても過言では無いと思います。

金砕棒持ってますね…当時の人の身長は、一説には栄養状態の良い武士は大きい人間もいる傾向にあり、軍役で借り出される雑兵は小さかったようですが…この人はずば抜けてデカすぎです。対峙する兵達からしてみれば「バケモノ」にしか見えなかったのではないでしょうか?

実家扇谷上杉の臣として度々山内上杉と戦い戦功を挙げ、嫁の実家大森氏が小田原城を追われた事から北条早雲と戦う事となり、早雲を散々に苦しめた名将三浦義同。未だに三浦では「道寸祭り」などが行われ義意と共に慕われています。

義意さんの裏に隠れてしまってますがwこの人も大力ですw

新井城の戦い

戦国時代初期に三浦義同が伊勢盛時(北条早雲)に城を囲まれ、3年にわたる篭城戦を繰り広げたが、ついに陥落して相模三浦氏は滅亡した(新井城の戦い)。

義同さんは「北条早雲の宿敵」と言われる程、これ以前にもかなりの活躍があるのですが、長くなりすぎるため割合(最後にリンク貼っておきます)。義意の恐ろしさがよく分かるこの新井城の戦いをメインに紹介させて頂きます。

なによりも…「規格外」

Wikipedia「三浦義意」の記載

背丈は7尺5寸(227センチ)と伝え、最期の合戦で身につけた鎧の鉄札の厚さが2分(6センチ)

松井広吉 著 「上杉謙信」の記載

三浦荒次郎義國は身長七尺五寸(約227cm)。

三浦時綱(正木時綱 一応荒次郎の弟とされている人物)は七尺三寸の高さで、十八歳の時赤手(すで)で牛の角を引っこ抜いた。

出典松井広吉 著 「上杉謙信」 第三 日本人種の最も發達した好典型

よく巨漢武将で出て来るのが、姉川合戦図屏風に巨刀「太郎太刀」を振り回して戦ってる姿が残る「真柄十郎左衛門直隆」ですが…それ以上にデカいです。

正木時綱さんは一応荒次郎さんの弟って事になっているんですの。この人もその内出しますw

一応参考までに。戦国あたりの平均身長は159㎝~157㎝まで低下傾向にあったようですね。これを見ると…小氷河期で不作、飢饉が続いた時代なので身長も小さくなったのでしょうか?三浦義意が如何に規格外だったのかが分かります。

また…武器がおかしい…

白樫の丸太を1丈2尺(364センチ)に筒切りにしたものを八角に削り、それを節金を通した棒(金砕棒)をもって戦い、兜の頭上を打つと粉々になって胴に達し、横に払うと一振りで5、10人と押し潰し…

相州荒井主、三浦義銅の子息、荒次郎義意が、永正十三年(1516)七月、北条早雲にかこまれ討死したとき、家伝の五尺八寸、正宗の大太刀をふるって奮戦した

364㎝の昔話の鬼がよく持ってる金砕棒、五尺八寸(約176㎝)の政宗の大太刀、どちらも大きさが異常…こんなのと三年間も戦わされた当時の小柄な雑兵はたまらなかったでしょうね…

追記:原文は一丈二尺ですwよくみたら寸になってたwww Wikipediaの引用直しておきますw

その余りの鬼神ぶりに…義意が城門から撃って出ると敵兵がかかってこなくなる。

その男が新井城を飛び出すや、また2メートルを越える金棒を振り回して縦横無尽に切り進むからたまらない。

「あの男を斬れ、褒美は思いのままぞ───」

叫ぶ武者の叫び声もむなしく、北条方の軍勢はそのあまりのすさまじさに、ただ見ているしかなかった。

そりゃそうなります。

こんな事も起こる

・・・が、その中でも豪勇の誉れ高い若武者四人が先陣を切り、荒次郎義意に立ち向かっていった。
しかし、北条の中でも豪勇で知られた四人ですら、たちまち倒されねじふせられ、荒次郎義意の刃はこの四人に向けられた。

すっかり覚悟を決めた四人であったが、「その武者ぶり、まことに天晴れなり。いまここで討ち取るのはたやすいが、これほどの人物なら、必ず世の為に役立つであろう」と、その勇敢を惜しんみ、許したと言われている。

そんな荒次郎に対し、北条方の武将4人が勇敢にも立向ったものの、やはりかなわず、討たれそうになりました。その時、道寸は敵ながらその勇敢ぶりを認め、4人を許し、放免したといわれています。

義意に立ち向かうだけで父義同(道寸)が止めに入り、その勇敢さを賞賛されてしまう…どれだけ怪物だったのかが分かる逸話です。

そして…叩き殺した敵兵五百人以上!

軍記物によると、義意は白樫の八角棒を持ち、喚きながら敵中に打ち入り、四方八方へ逃げる者の頭部を狙っては散々に振り回した。ひと払いに5人10人、その有様は、およそ夜叉羅刹のごときで、死者500余人という。

五百人殺し…「白い死神」と呼ばれた第二次大戦のスナイパー「シモ・ヘイへ」ぐらいしか対抗できる数字を持ってる方は居ないのではないでしょうか?しかも「飛び道具」ではありません。極めて原始的な叩きつける手持ち武器です…

最後は自ら首を刎ねる…しかも首は北条氏の拠点小田原に飛んでいき…小田原城直下の古松にかぶりついて三年間も通行人を呪う。

そして、義意は自らの首を掻き斬った。その形相は牙をむき、眼は逆さに裂け、鬼髪は針の如く立っていたという。

伝説によると、義意が自分の首を勢いよく斬ると、その首級は小田原まで飛んでいき、海岸の松の枝に掛かった。胴体は下の入江に落ちたといわれ、その場所を胴網海岸と呼び、この浜に網を干しにきた人が昼寝をすると必ずうなされたと伝わる。小田原の首は眼を開いたまま睨み続け、腐ることもなく、まるで生きているようであった。北条氏はこの生きる生首を供養しようと高僧を呼んでいるが、効果もないまま3年が過ぎた。この話を聞いた総世寺の忠室(ちゅうしつ)が、生首に「うつつとも夢とも知らず一眠り 浮世の隙(ひま)をあけぼのの空」と詠んで手向けたところ、たちまち生首は白骨になって松の枝から落ちたという。この時、空から「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と聞こえたといい、その松の下に祠を建て義意の霊を祀ったのが現在の居神神社(小田原市城山)であると伝えられる。そして、新井城跡の近くにある海蔵寺(三浦市三崎町小網代)の本堂には、この飛首伝説を描いた絵馬が奉納されている。

ここに義意の胴が落ちたんですね…北条軍が検分用に網で掬った?若しくは後に漁網に引っかかった?網で胴を引き上げたからこの名前なのかもしれません…

どうやら、「義意の首は井神の森の古松にかぶりつき…」とある「井神の森」が義意を神として祀る事で「居神」に変わってこのような名前になったようです。

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