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【キングダム】史実と共に登場人物紹介  ※ネタバレ注意

『キングダム』は、原泰久による日本の漫画作品。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)にて、2006年9号より連載中。第17回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作。あのキャラクターは実在したの?本当はどんな活躍をしたの?をテーマに作品中の設定とともに史実をまとめています。

更新日: 2015年06月23日

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athanaさん

ハマり出す人続出中!!ヤングジャンプで大好評連載中の「キングダム」とは!?

中国の春秋戦国時代を舞台に、大将軍を目指す少年・信と後の始皇帝となる秦王・政の活躍を中心に、戦乱の世を描く。
単行本の累計発行部数は1200万部以上。

李信(り しん)※この物語の主人公

戦争孤児の少年。低い身分から自らの腕で「天下の大将軍」となることを目指す。1話冒頭で「李信」と呼ばれている。豪気且つ直情径行で、自分の意志を貫く頑強な心を持つ。ただ礼儀作法は知らず、秦王である嬴政も堂々と呼び捨てている。
相手が格上であってもそれに比例して自分の実力を底上げする武の天稟の持ち主。漂によると「自分が勝てない相手に信は勝つことができる」と言う。当初は自分の武力で全てを片付けようとする猪突猛進型であったが、王騎からの修行や助言、幾多の経験を経て「将軍」としての実力を身につけていく。

中国戦国時代から秦代にかけての秦の武将である。

紀元前229年~紀元前228年、王翦が数十万の軍を率いて趙と対峙している時、李信は趙の太原、雲中に出征していた。
紀元前226年、王翦と王賁は、前年の燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件の報復として、燕都・薊を攻略し、燕王喜と太子丹を遼東に敗走させた(燕の事実上の滅亡)。この際、李信は、約1000の兵を率いて燕軍を追撃し、太子丹を討ち取った。
紀元前225年、秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した。李信は、「20万」が必要だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。秦王は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿で、蒙恬は寝丘で楚軍に大勝した。さらに、李信と蒙恬は、郢周辺を攻め、再び楚軍を破る。しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕率いる楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ7人の将校を失う大敗を喫した。そのため、王翦と交代させられた。なお、翌年、王翦と蒙武が60万の兵を率いて楚を攻め、楚王負芻を捕虜にし、楚を滅亡させた。
紀元前222年、王賁と共に燕の遼東を攻め、燕王喜を捕虜とし、これを滅ぼした。さらに、代(趙の滅亡後に趙の王族が代に逃れて樹立した政権)を攻め、代王嘉を捕え、代を滅ぼした。
紀元前221年、王賁と蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼした。

嬴政(えい せい)

秦国の若き王。後の始皇帝。漂と瓜二つの容姿をしている。
出生の関係から幼少時代を趙国で育ち、その際、趙の人々に憎しみの対象として虐げられていたため、味覚・痛覚・嗅覚が全く無く、他人を一切信じようとしない荒んだ性格であった。昭王の崩御後、秦国への帰路で紫夏との出会いを通じて失っていた五感や人を信じる気持ちを取り戻した。
現在の性格は冷静でポーカーフェイスを崩さないが、昌文君や信たちのことを信頼している。武芸にも長けており、信の胸倉を掴んで片手で持ち上げるなど腕力も高い。
王都奪還の際、中華を統一する最初の王になると公言し、成人して正式に王となるために呂不韋陣営と政争を繰り広げる。

始皇帝(しこうてい、紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇帝、または秦始皇と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。

中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行った。巨大プロジェクトも実行し、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行った。また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られる。

漂(ひょう)

信の幼馴染の親友。信と共に大将軍になることを夢見て武芸の稽古に明け暮れた。対戦成績は1253戦334勝332敗587引き分け+2戦分(勝敗不明)。
政と瓜二つの容姿により、昌文君に身請けされ王宮に仕官する(その役割は政の影武者であり、宮殿に着くまで召し抱えられた理由を聞かされなかったが、最終的に納得した)。王弟反乱の際、刺客の徐完に深手を負わされながら村へと戻り、信に全てを託して力尽き死亡した。恐らく初陣ながらも政の影武者としての役割を全うし、窮地に陥りながらも兵を鼓舞し、戦う姿は既に将であったと壁が語っている。
葬儀の際には、隣村から弔問する者が居るほど様々な人に慕われていた

史実ではモデルとなる人物は存在しないようですね。

羌瘣(きょう かい)

伝説の刺客一族「蚩尤」の後継候補として育てられた羌族の少女。年齢は信の一つ下。緑穂(りょくすい)という剣を武器に戦う。
蚩尤を決める“祭”で姉のように慕っていた羌象を謀殺された事から、復讐のためだけに生きる道を選び、里を出奔。しかし一族からは、“祭”で勝ち残ってもいないのに外界へ出ているため、裏切り者と呼ばれている。
登場時は他人との慣れ合いを嫌っていたが、徐々に周囲に心を開くようになり、飛信隊を自分の居場所だと思うようになる。

羌瘣(きょうかい)も史実に出てきます、かなり少ないですが。
始めて出てくるのは紀元前229年、「代を討った」とあります。

紀元前229年(始皇18年)、代を伐った。
紀元前228年(始皇19年)、王翦と共に趙を攻め、幽繆王を東陽で捕らえ趙を滅ぼした。さらに、兵を率いて燕を攻めんと中山に駐屯した。

河了貂(かりょう てん)

黒卑村に住んでいた、梟鳴(きゅうめい)という山民族の末裔。鳥の頭を模した蓑を被っており、初めて見る者は謎の生き物と思う事が多い模様。
当初は金のために政と信に協力していたが、共に行動するうちに懐いていき、やがて仲間となる。やや幼い容姿と着ている蓑のために、登場時はどちらの性別か不明であった。王都奪還編のときに女性と明らかになるが、貂がそのことを明かさなかったために、信は長い間気づいていなかった。

史実ではモデルとなる人物は存在しないようですね。

王騎(おうき)

秦国六大将軍の一人。そしてかつて昌文君と共に昭王に仕え、中華全土に名を馳せた武人。
あだ名は「秦の怪鳥」。個人的武勇と戦場全体を見渡せる知略の双方を兼ね備える最強の六大将軍。
趙軍との戦における序盤は趙軍を圧倒するが、深追いし過ぎた秦軍先鋒・蒙武の救援に向かったところを趙本軍とその伏兵との挟み撃ちに遭い乱戦の最中龐煖に討たれる。龐煖との一騎打ちではほぼ互角ながらも止めの一撃を加えようとしたまさにその時、趙の魏加の狙撃によって不意をつかれ逆に龐煖の矛に打ち抜かれた。戦場を離脱し、騰や蒙武や信に言葉を残し、最後に信に矛を託して力尽き死亡した。

紀元前257年(昭襄王50年)、趙の邯鄲を包囲した
紀元前247年(荘襄王3年)、韓の上党を攻めて、太原郡をおいた。
紀元前246年(秦始皇元年)、秦王政が即位すると、蒙驁、麃公らと共に将軍に任じられる。
紀元前244年(秦始皇三年)、同僚の蒙驁が韓を攻め十三城を取るも、同年に死没。

実はもう1人の六大将軍 王齕(おうこつ) と
同一人物だったという説があります・・・。

時期的に、重なる戦歴が多い事から、後世の歴史家は、王騎と王齕を同一人物として見ていますし、王騎の本字は「王齮」で偏も同じなのです。
これを見ると、王齕は、秦の名将、白起(はくき)の副将として長平の戦いで趙を破り趙の武安君を討ち、魏を破ったり、韓の上党を攻めて太平郡を置いたり大活躍をしている事が分かります。

騰(とう)

王騎軍の副官。将軍に進む。常に王騎の傍に控えており、普段は飄々としてポーカーフェイスを崩さない。
趙軍との戦では、終盤で趙荘軍本陣に突撃して大将代理・趙荘を討ち取り、その後に王騎が致命傷を負うと、戦場から離脱させるために撹乱目的で敵本陣に突撃をかける等、その実力は(王騎本人から)王騎に見劣りしないと評される程である。対合従軍戦で蒙武軍との連合軍となって楚軍と当たり、第一陣将軍の臨武君を一騎打ちの末に討ち取った。
戦闘時は片手に持った剣を芝刈り機のように高速回転させ、敵兵をこともなげに撫で斬りにしていく。その際、「ファルファルファル」という独特の擬音が出る。

紀元前231年、秦が韓より南陽の地を譲られると、騰は仮の守となる。
紀元前230年、韓を討ち、韓王安を虜にし、韓を滅ぼした。
なお、雲夢睡虎地秦簡では『語書』に南郡の郡守としてその名が見える。

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