1. まとめトップ

この記事は私がまとめました

kou123kkさん

■①西方大遠征
 地球の歴史は、6億平方キロメートルの大空間と、50億年という長大な時の流れで構成されている。まさに、時空の大器だが、その中に地球を股にかけた大遠征が4つある。アレクサンドロス大王の東方大遠征、ナポレオンのロシア遠征、ヒトラーのバルバロッサ作戦、チンギスハーンの西方大遠征である。中でも最も長躯の遠征は、チンギスハーンによる遠征であった。

 チンギスハーンの遠征の目的はホラズム王国抹殺だったが、実際は、遠く東ヨーロッパまで侵攻している。遠征の目的は別の所にあったのかもしれない。たとえば、陸地が続く限り、地の果てまで征服するとか。チンギスハーンなら普通にありうる。とはいえ、やはり、直接原因はオトラル事件。チンギスハーンの使節が、ホラズム王国の知事によって殺害された事件である。

 チンギスハーンは、その目覚ましい業績により、歴史的英雄とされているが、心理学で計れば、異常者に近い。破壊し、虐殺し、辱め、その泣き叫ぶ顔を見るのが無上の幸福、と公言しているのだから。現代なら、立派な?犯罪者だが、このような英雄は歴史上枚挙にいとまがない。いずれせよ、1キロ離れていても気疲れする人物だ。上司にはしたくない。

 このような恐ろしい指導者に率いられた大軍が、西方に向け解き放たれたのである。その地に暮らす住民にとって、災難以外の何ものでもない。1219年9月、モンゴル帝国の大軍は進軍を開始、その兵数は15万~20万に達した。一方、迎え撃つホラズム王国の兵力は約40万。数ではホラズム王国が圧倒したが、”質”が伴わなかった。

 モンゴル軍を直接指揮するのは、ノヤンと呼ばれる千人隊長だが、彼らは、チンギスハーンに絶対の服従と忠誠を誓う指揮官だった。さらに、兵も熾烈なモンゴル統一戦争を勝ち抜いた戦闘のプロであり、酷寒に耐え、わずかな食物で生きのびることができた。この鋼のようなモンゴル軍にくらべれば、ホラズム王国の将兵などバターのようなものだった。平和と贅沢に慣れ、訓練も怠り、忠誠心が何かさえ忘れていた。これが誇張でないことは、後の歴史が証明している。

 モンゴル軍は軍を4つに分け、面で攻撃を仕掛けた。第1軍は第2子チャガタイと第3子オゴタイ(ウゲディ)が指揮し、第2軍は長子ジュチ、第3軍は子飼いの将軍たち、主力の第4軍は末子トゥルイ、そして総司令官はチンギスハーン。また、モンゴルの使節団を殺害した怨念の町オトラルの攻略を命じられたのは第1軍である。

 オトラルの攻略は、1219年9月から始まったが、たちまち陥落、とはいかなかった。意外にも、5ヶ月ももちこたえたのである。町の守将は、使節団殺害を命じた知事ガイルハーンで、逃げるチャンスはあったが、自らの責務を全うした。最終的にオトラルは陥落し、ガイルハーンはサマルカンドにいたチンギスハーンのもとに引き出された。

 ガイルハーンは身の毛がよだつような恐ろしい方法で処刑された。体のすべての穴に融けた金属を流し込まれたのである。さらに、オトラルの町は跡形もないほど破壊され、住民のすべてが殺された。歴史に名高い、モンゴル帝国の大殺戮の始まりだった。

■②ブハラ
  一方、チンギスハーン率いる主力の第4軍は、1220年2月ブハラを包囲した。ブハラは中央アジア最大の都市で、2万の守備隊がいた。ところが、無数のモンゴル軍を目の当たりにし戦意喪失、戦う前に降伏した。ブハラ市に入城したチンギスハーンは、イスラム教の聖典コーランを運ばせ、自分の馬のエサとした。モンゴル兵は酒宴をもよおし、イスラムの聖職者たちはモンゴルの馬の世話をさせられた。イスラム教徒にとって、これ以上の屈辱はなかった。

 ここで、チンギスハーンは全市民をあつめて歴史的な演説を行う。この演説は、チンギスハーンが中央アジアで吐いた初めての言葉として知られている。

「おまえたちが大きな過ちを犯したこと、おまえたちの首領たちが最大の犯罪者であることを知れ。もし、おまえたちが余にいかなる根拠にもとづいて、この演説をするのかと問うならば、、余は余こそ神意を受けた者であると答えよう。もし、おまえたちが罪人でなければ、神は余をおまえたちの頭上に差し向けないだろう」(※1)

 論理的で、象徴的で、詩的だ。もし、この演説が本当ななら、チンギスハーンは並々ならぬ知性の持ち主だった?ところが、せっかくの名演説も、世に広く知られることはなかった。証人のブハラ市民を殺害したからである。助命していれば、彼の名声はあまねくとどろいただろうに。やはり、そこはチンギスハーンである。

■③サマルカンド
 チンギスハーンの第4軍は、つぎにサマルカンドに向かった。サマルカンドは、中央アジア最古の町で、古くは、ペルシャ帝国の州都として栄えた。アレクサンドロス大王によって征服された後は、東西交易で繁栄し、8世紀頃にはイスラム文化の中心となった。

 モンゴル軍がサマルカンドを目指していた頃、ホラズム国王スルタン ムハンマドは、防衛の準備に追われていた。彼は、モンゴル軍の主力がサマルカンド東方に現れるとふんで、町の東側の防備を固めていた。西方には全幅600kmにもおよぶキジルクム砂漠が広がり、馬も通れない難所だったからである。

 ところが、モンゴル軍の主力は、西方に姿を現した。前人未踏のキジルクム砂漠を踏破したのである。これを目にしたときのムハンマドの恐怖は想像に余りある。裏をかかれた、などと悔やむ次元の話ではない。このとき初めて、ムハンマドは気づいた ・・・ 自分の敵はヒトではない、と。一方、サマルカンドには、北方からはモンゴル第1軍、東方から第2軍、南方から第3軍が接近しつつあり、ムハンマドは己の不運を嘆いているヒマもなかった。

 その後のスルタン ムハンマドの行動は、迅速を極めた。軍事作戦ではなく、脱走のことである。彼は、サマルカンドに自軍をおきざりにし、南方に逃げのびたのだ。しかも、戦いが始まる前に。もっとも、戦いが始まってからでは遅い。注目すべきは、彼のすべての行動が、初めから負けることを前提にしている点だ。未来を見切って、目先の状況には目もくれず、意識を「逃亡」一点にしぼりこんでいる。これは、ある意味、傑出かもしれない。とはいえ、置き去りにされ、皆殺しにされた将兵や市民は浮かばれない。

 上司がチンギスハーンなら、気疲れは絶えないが、スルタンムハンマドなら、見殺しにされる。凡人はよい馬(親分)に乗るのが一番だが、長い歴史をみても、良い馬はなかなかいないものだ。

 1220年3月17日、スルタン ムハンマドが逃げ出した後、サマルカンドは陥落した。例によって、市民は虐殺されたが、職人3万人は助命された。そして、皇子、王妃、将軍たちに分配されたのである。つまり、モンゴル帝国の虐殺は合理的かつ選択的で、怒りや嗜好によるものではない。もっとも、このほうがよっぽど怖いのだが。人間を道具としてしか見ていないのだから。さらに、市場、寺院、塔、家々、あらゆる建物が破壊された。一つの町が消滅し、平地に還ったのである。

 この歴史的大破壊は、中世最大の旅行家イブン バトゥータの「三大陸周遊記」にも記されている。イブン バトゥータがサマルカンドを旅したのは、この戦争の100年後だが、生々しい爪痕(つめあと)はまだ残っていた。彼は、サマルカンドが世界でもっとも大きく美しい町の一つとしながらも、市街の大部分が廃墟となっていると書いている(※2)。三大陸周遊記のこのくだりは、リアルリティがあり、詩的で、印象的だ。その後、サマルカンドは、ティムール帝国の首都になり、再び繁栄をとりもどす。

■④ホラズム王の最期
 こうして、中央アジアの諸都市はモンゴル軍によって徹底的に破壊された。モンゴル軍の作戦はおおむね順調だったが、チンギスハーンにはまだやり残したことがあった。後は野となれ山となれ、自分だけ逃げのびたホラズム王スルタン ムハンマドである。チンギスハーンは、将軍ジェベとスブタイにホラズム王追撃を命じた。ムハンマドは巧みに逃げまどったが、カスピ海沿岸の小さな島で病死する。イランの支配者、西方イスラムの覇者アッバース朝とも対峙した名君は、すり切れた着衣のままひっそり埋葬されたという。

 こうして、モンゴル軍は不敗神話をつくりあげた。では、その強さの秘密はどこにあったのか?圧倒的な機動力を誇る騎馬兵、わずかな睡眠と食料で戦い続ける不死身の兵士。そして、もう一つ。情報収集力である。長躯の遠征は、地の利に優る守備側が有利になるが、チンギスハーンはこれを相殺していた。たとえば、モンゴル軍はホラズム王国の中枢であるトランスオクシアナ地方の地理情報を知り抜いていた。では、その情報をどうやって知り得たか?サルト商人である。彼らは、自分たちの商圏を保護してもらう見返りに、チンギスハーンの目と耳、つまりスパイになっていたのである。

 サルト商人のスパイ活動がモンゴル軍を勝利に導いた?ちょっと大げさでは?いや、それを示す証拠もある。チンギスハーンの西方遠征の前半は好調だったが、後半は苦戦が目立つようになる。戦闘の疲れもあるだろうが、情報収集力が低下したのである。前半の戦場はオトラル、ブハラ、サマルカンドなど、アムダリア河とシルダリア河をはさむトランスオクシアナに集中している。この地方は、サルト商人のテリトリーだ。一方、苦戦したホラーサーン、アフガニスタンはサルト商人の活動地域ではない。

 もう一つ、理由がある。モンゴル軍は全軍が騎馬兵なので、平地の戦闘は有利だが、山岳地帯では不利になる。作戦が好調だったトランスオクシアナは平地で、ホラーサーン、アフガニスタンは山岳地帯が多い。つまり、騎馬兵の地形上の相性が影響したのである。

 ただ、モンゴル軍は苦戦はしたものの敗けたわけではない。そして、最後にはお決まりの破壊と殺戮が待っていた。特にホラーサーン州は目をおおうほどだった。バルフ、メルヴ、ヘラート、ニシャブールなど主要都市はほぼ壊滅。
「知識の樹は聖地メッカに根を張り、その実はホラーサーン州で結ぶ」
と讃えられたホラーサーンのイラン文化は地上から完全に消滅したのである。

■⑤勇者ジャラール アッディーン
 ホラズム王スルタン ムハンマドが死んだ後、ホラズム王国の命数は断たれたかのように見えた。ところが、降って湧いたように英雄が出現する。ムハンマドの後を継いだ長子ジャラール アッディーンである。この若き王子は、ホラズム王国創設の血統を彷彿させる傑物であった。

 ホラズム王国の創始者は、セルジューク朝のホラズム総督アヌーシュティギーンである。彼はマムルーク、つまりトルコ人奴隷兵の出身であった。マムルークとは騎馬民族の出身で、幼少時に金で買われた奴隷だが、ただの奴隷ではなかった。あらゆる戦闘訓練を受けた騎兵のエリートだった。このような血が脈々と流れるジャラール アッディーンは、勇敢で誇り高く、強い使命に突き動かされていた。ホラズム王国の復興である。その後、彼の人生はイランで語り継がれる伝説となった。

 ジャラール アッディーンは、父スルタン ムハンマドの死後、ホラズム王国の本拠地ウルゲンチによっていた。ウルゲンチは、祖母テルケン ハトンが支配する町だったが、すでにモンゴル軍に包囲されていた。ジャラール アッディーンは、町を奇跡的に脱出、モンゴル軍の厳重な警戒網をくぐり抜け、自領地ガズナに移った。その地で、トルコ諸部族とゴール人からなる6万の軍を編成したのである。さらに、カーブル東北のパルワーンに侵攻し、シギ クトク麾下(きか)のモンゴル帝国軍を撃破した。局地戦とはいえ、モンゴル軍に勝利したのである。しかも、シギ クトクはチンギスハーンの第5子と称されるほどの名将であった。

 一方、敗北を聞きつけたジンギス ハーンの行動も速かった。バルフ、バーミヤーンと主要拠点を次々と攻略、ジャラール アッディーンをインダス河畔まで追いつめた。チンギスハーンの出現に、ジャラール アッディーン軍は狼狽し、大混乱に陥った。しょせん、かき集めの混成軍、崩壊もまたたく間であった。ところが、戦いには負けたものの、ジャラール アッディーンは最後の見せ場をつくる。危険をかえりみず、馬もろともインダス河に飛び込み、そのまま逃げ切ったのである。チンギスハーンは感心し、部下の面前で、その勇敢さを誉めたたえたという。こうして、九死に一生を得たジャラール アッディーンはインドに身を隠した。

 その後、チンギスハーンの帰還すると、ジャラール アッディーンは、再びイランに潜入、ホラズム王国復興を画策した。そして、1225年、タブリーズを奪還、この地を首都とし、ホラズム王国再建をなし遂げたのである。一方、モンゴル帝国もこれを見逃さなかった。チョルマグーンが指揮するモンゴル軍が派遣されたのである。結局、ジャラール アッディーンは、追いつめられ、逃走中、住民によって殺された。

 ジャラール アッディーンは武人のエリート「マムルーク」の血統で、チンギスハーンが讃えるほどの勇者だったが、組織的抵抗をつくりあげることはできなかった。一方、土地の民衆の間で、ジャラール アッディーンは伝説の英雄となった。無敵のモンゴル軍に立ち向い、幾たびか勝利したのである。そして、ジャラール アッディーンの死によって、150年つづいたホラズム王国は歴史から姿を消した。

■⑥ルーシー連合軍の大敗
 チンギスハーンが帰還した後も、王子と将軍たちによる征服は続行された。スルタン ム ハンマドの死を確認したジェベ・スブタイ軍は、つぎに北イランに侵入、ライ、カズビーン、ウズベク、マラーガ、ハマダーン、バイラカーンを攻略した。町は、例によって破壊され、略奪され、辱められ、住民は何万人も殺された。一方、モンゴル軍は相手が手強いと見るや、貢納させることで折り合いをつける柔軟性も持ち合わせていた。

 ジェベ・スブタイ軍は、休むことなく、さらに西方に侵攻した。ルーシの地、つまり、現在のロシアに達したのである。1222年、ジェベ・スブタイ軍に圧迫されたキプチャク族はルーシに逃げ込み、救いを乞うた。ところが、ルーシにはまだ統一国家はなかった。それでも、ルーシの領主であったキエフ公、チェルニゴフ公、ガリチ公らはありあわせの連合軍を編成し、モンゴル軍に挑んだ。有名なカルカ河畔の戦いである。1223年5月31日、ルーシ軍はモンゴル軍に大敗し、領主たちは降伏したにもかかわらず、全員なぶり殺しにされた。

■⑦遠征の終わり
 中世ヨーロッパは暗黒の時代といわれる。キリスト教の教義が、言論の自由や、科学の合理性まで否定したからである。結果、ヨーロッパ諸国はモンゴル帝国の合理的で科学的な攻撃に手も足も出なかった。つまり、神に祈るしかなかったのである。ところが、ここで奇跡が起こる。1242年3月、ハンガリーを包囲していたモンゴル軍に訃報がとどいた。オゴタイ ハーンが死んだのである。

 資料によれば、大ハーンは1241年12月11日に没している。その訃報がハンガリーに届いたのは1242年3月。つまり、3ヶ月かかっている。また、カラコルムとハンガリーの距離はおよそ7000kmなので、情報伝達速度は、
7000km÷90日=78km/日
日本の飛脚より遅いが、まだジャムチ(駅伝制)が整備されていないので、妥当な数字だろう。

 こうして、遠征中のモンゴル軍はヨーロッパ征服どころではなくなった。次の大ハーンは誰か?モンゴルの王族たちは色めき立った。二代目ハーンは、偉大な創始者チンギスハーンによって指名されていた。だが、今回は違う。大ハーンの死は突然で、継承の準備もされておらず、チンギスハーンのような求心力もない。こうして、骨肉の争いが始まったのである。

 モンゴル帝室の王子たちは、次の大ハーンを決めるクリルタイに出席すべく、ハンガリーから撤退を開始した。オゴタイ ハーンの死がヨーロッパを救ったのである。まさに、間一髪であった。

■⑧チンギスハーンの死
 中央アジア北部に広がるモンゴル高原の降雨量は年間50ミリにも満たない。大地をおおうはずの樹木もまばらで、空気が乾燥を極めているのはそのせいで、そこで暮らす人々の命を消耗させている。モンゴルのチンギスハーンはこのような過酷な環境で戦った。それでも60年も生きたのは、英雄の命数は環境ではなく使命によることを示唆している。1227年8月18日、チンギスハーンはタングート王国を攻略中、陣中で没した。

 ユーラシア大陸を横断したもう一人の征服者アレクサンドロス大王。彼は死の床で、後継者を問われ、こう答えた。
「最も強い者」
この響きのいい無責任な遺言が王国を3つに分裂させた。ところが、チンギスハーンには、このような軽率さはなかった。

 チンギスハーンはスターリンに酷似している。スターリンの側近はかつてこう回顧した。
「スターリンは、自分が何を望んでいるかをはっきり理解していた。頭のてっぺんから足のつま先までリアリストで、甘いところはまったくない。話し方も簡潔で、すべて核心を突く。無駄な言葉は一つもなかった」

 チンギスハーンもまた超がつくほどの現実主義者だった。この2人に共通するのは、大帝国の支配に成功したこと。一方、支配より冒険を好むアレクサンドロス大王は、征服はできても、それを維持することはできなかった。帝国統治に必要なのはロマンティストではなくリアリストなのである。

 チンギスハーンとスターリンにはもう一つ共通点がある。冷酷さと残虐さ。つまり、現実主義は冷酷さと残虐さと等価なのである。たとえば、チンギスハーンの統治システムは現実的で合理的だが、最終的な問題解決は「大破壊と大量殺戮」に帰着する。これはスターリンも同じ。戦国時代の覇者織田信長のもこのタイプだが、晩年、油断がたたり、ありえないテロで命を落とす。ここが、チンギスハーンと大きく違う点だ。

■⑨アレクサンドロス大王
 歴史上、アレクサンドロス大王は異質の征服者である。少なくとも、チンギスハーンとは間逆だ。アレクサンドロス大王はロマンティストで、自分の先祖がヘラクレスやアキレスと吹き込まれ、それを真に受けた。一方、アレクサンドロス大王の歴史は、歴史的偉業は「超現実主義」だけでなく「ロマンティズム」も為しうることを示唆している。もし、アレクサンドロス大王がリアリストなら、大国ペルシャを滅ぼした時点でミッション終了、天にも昇る気持ちで、凱旋しただろう。ところが、彼が向かったのは祖国ではなく、未知の東方世界であった。

 アレクサンドロス大王とマケドニア将兵は寝食を共にしたが、じつは、別の世界で生きていた。このことは、やがて大きな悲劇をうむ。アレクサンドロス大王はインドに達し、さらに東に向かおうとしたが、将兵の謀反同然の抵抗にあう。最終的には、帰還をよぎなくされたのである。アレクサンドロスは部下の反抗が信じられなかったし、部下も不毛の東進が理解できなかった。この行き違いは、コミュニケーションの欠如からくるものではない。アレクサンドロス大王とマケドニア将兵は別の時空で生きていた。視線が同じでも、見えるものが違うのである。

 そもそも、アレクサンドロス大王の東方遠征は、目的からして曖昧である。目的というより、動機といったほうがいい。理にかなうのはペルシャ帝国の征服まで。その後は、好奇心と冒険心にかられた大冒険としか思えない。征服した領土のメンテナンスに無関心だったのはそのせいで、アレクサンドロスは生涯の大半を、新しい狩り場で過している。もちろん、後継者のことなど念頭にない。

  一方、チンギスハーンはこの点も徹底していた。早い段階で、後継者を第3子オゴタイ(ウゲディ)に指名していたのである。第1子ジュチは有能だが、チンギスハーンの実の子ではない可能性があった。チンギスハーンがまだ若い頃、妻が略奪され、その後、取り返したものの、妻は身ごもっていた。その子がジュチだったのである。また、第2子のチャガタイは、ジュチの出生の疑惑を公然と口に出すほど軽率で、気性も激しかった。このような経緯で、温厚な三男オゴタイが選ばれたのである。また、第4子のトゥルイも、武勇とリーダーシップに優れ、人望もあつく、周囲が認める有資格者だったが、父チンギスハーンの意に従い、オゴタイに服従を誓った。

 チンギスハーンの4人の王子たちは、泥水をすすって、一代で帝国を築き上げた父を畏敬し、そのカリスマで結束することができた。これが、チンギスハーン亡き後も、帝国が繁栄した理由である。オゴタイが大ハーンに就いたとき、その国力は、父チンギスハーンの時代をはるかに上回っていた。歴史上希にみる、一枚岩の大帝国が出現したのである。

■⑩チンギスハーンの遺産
 チンギスハーンの現実主義は、帝国統治にもいかんなく発揮された。千戸長(ノヤン)が千戸を統率する千戸軍団が組織された。これは生活単位と軍事単位を一元化したものである。つまり、モンゴル帝国は「生活=戦闘」なのだ。また、征服された都市には、大ハーンの代官「ダルガチ(行政官)」が置かれ、占領地の監視、警察、貢納の運送の任にあたった。

 ところが、モンゴル本土以外に移り住んだモンゴル人はわず1万2千戸。このような小数で、あの広大な領土をどうやって維持したのだろう?一旦、謀反が起これば、多勢に無勢、モンゴル側に勝ち目はない。

 モンゴル帝国は歴史上最大版図を成し遂げた大帝国である。支配地が広すぎて、すべての地域に軍団を配置することはできない。一方、監視する者がいなければ、反乱は必ずおこる。そこで、チンギスハーンが編みだしたのが、ジャムチだった。ジャムチとは「駅伝制」を極めたシステムで、帝国内の情報をモンゴル本国に報告すること、本国の命令を帝国内に伝達することを目的とした。

 具体的には、幹線道路沿いに宿駅を置き、付近の住民に馬や食料を供給させ、その世話をさせた。この情報ネットワークにより、モンゴル帝国の急使は安全かつ迅速に移動することができた。宿駅をノード、幹線道路を光ファイバー、人馬をパケットに当てはめれば、
「ジャムチ=インターネット」
違うのは、情報量とスピードだけ。

 このジャムチがあれば、謀反・反乱が起きても、直ちに本国に伝えられ、モンゴルの大軍が押し寄せ、町は破壊され、住民は皆殺しにされる。このような懲罰が何度か繰り返されるうちに、謀反は起こらなくなる。これが、少数のモンゴル人が大多数の被征服民を支配できた理由だ。

■⑪騎馬軍団の秘密
 歴史上最強とされるモンゴル軍は、他に類をみない特徴があった。まず基本、モンゴル軍はすべて騎馬兵である。遠征時には、一人の騎馬兵が7~8頭の馬をともなったが、移動や戦闘で馬を乗りつぶすからである。モンゴル軍の馬は小柄だが耐久力があり、1日に70~80kmも移動できた。歴史上、高速軍団で知られるアレクサンドロス軍や羽柴秀吉軍でさえ、1日30km(歩兵の限界)。モンゴル軍の機動力がいかに突出しているかがわかる。

 一方、モンゴル軍と戦ったヨーロッパ軍は歩兵が中心だった。ヨーロッパ軍にも騎兵はいたが、数が少なく、鋼鉄の鎧(よろい)と兜(かぶと)で身を固めた重騎兵だった。一方、モンゴル騎兵は、革の鎧(よろい)を着たの軽騎兵。革の軽騎兵なんか、鋼鉄の重騎兵にかかればイチコロ?

 ところが ・・・

 現実は逆だった。合戦が始まると、モンゴル騎兵は軽快に戦場を疾走し、ヨーロッパ重騎兵に雨あられと矢を射かけた。そして、あっという間に去っていく。つまり、ヒット・アンド・アウェイ。ヨーロッパ重騎兵の鈍重な一撃が命中することはなかったのである。

 モンゴル軍の主力は、小馬で疾走する軽騎馬だが、大がかりなハイテク兵器も用いた。攻城戦で使う強力な破城槌(はじょうつい)や投石機である。強固な城壁で守られた城を小馬で突撃しても始まらない。モンゴル軍は合理的で、科学的で、現実的だったのである。さらも、刀、弓矢はもとより、手斧、やすり、針、鉄鍋、テント、敷物など日用品も携行した。つまり、生活圏まるごと進軍するわけで、これがモンゴル軍の長期遠征を可能にしたのである。

 また、モンゴル軍の携帯食はモンゴル式合理主義の結晶である。軽量化を極めるため、羊の肉を極限まで圧縮したのである。まず、羊の肉を乾燥させ、それを木槌でたたいてほぐし、脂肪分など余分な成分を排除する。この工程を何度も繰り返すことにより、羊1頭分の肉が袋に入るほど圧縮されるのである。

 この「羊肉」携帯食は、携帯に便利なだけではなく、あわただしい戦場で食するにも都合が良かった。お湯にいれるだけで、肉がとけだし、スープのように飲めるのだ。まるでカップラーメン。日本が誇る携帯食「ちまき」もすぐれものだが、圧縮率ではモンゴル食にはかなわない。また、この携帯食の袋の数で、遠征の期間までわかったという。モンゴル軍おそるべし ・・・ 機動力、打撃力、兵站、そして、優れた命令指揮系統、すべてが合理的かつ現実的、これがモンゴル式なのだ。

■⑫ヨーロッパ征服
 1229年、第3子オゴタイが大ハーンに就き、つづく1235年、首都カラコルムでクリルタイが開かれた。そこで、歴史的な遠征が決定される。亡きチンギスハーンがやり残した事業、ブルガル地方とキプチャク草原の征服である。そして、この遠征がユーラシア大陸の地図を一変させる。

 今回の遠征軍は前回を上回る規模で、モンゴル帝室の王族すべてが遠征に参加した。ジュチ家、チャガタイ家、オゴタイ家、トゥルイ家の王子が兵を率い、ジュチ家のバトゥが全軍の総司令官に任命された。歴史上名高い、モンゴル帝国のヨーロッパ第二次西方大遠征である。

 1236年春、バトゥ率いる主力はブルガル地方の攻撃を開始した。前回のモンゴル帝国の西方大遠征では、ジェベ・スブタイ軍がこの地を攻めたが、頑強な抵抗に合い撤退している。ところが、今回は新手で、しかも主力。ブルガル地方全土が略奪され、破壊され、住民は虐殺された。

 翌年、バトゥ軍はカスピ海、カフカス北方のキプチャク草原をすべて征服し、ルーシ(ロシア)に進出する。さらに、1237年12月21日には、リャザンから、モスクワ、ウラディミール公国に侵入、首都ウラディミールをはじめ14の都市をことごとく攻略した。山のような死体と瓦礫が残された。

 ところが、破竹のバトゥ軍はノヴゴロドまで100kmまで迫った後、突如、180度方向転換する。ノヴゴロド公アレクサンドル ネフスキーとの決戦をさけたのである。モンゴル軍はちまたに流布したイメージとは違い、無謀な戦さはやらなかった。戦う前に、徹底した情報収集と分析を行い、現実的な作戦をとったのである。おそらく、総司令官バトゥは、アレクサンドル ネフスキーとは戦っても勝ち目なし、あるいは、甚大な損害を受けると判断したのだろう。あの天下無双のモンゴル主力軍が。ところが、アレクサンドル ネフスキーは日本では無名に近い。

 アレクサンドル ネフスキーは、中世ロシアの国民的英雄である。1236年にノブゴロド公となり、1240年にネバ川にて強国スウェーデン軍を打ち破った。さらに、1242年には、ドイツ騎士団がロシアに侵入したが、これも阻止している。ドイツ騎士団とは、十字軍遠征の後、異教徒からキリスト教徒を守るために設立されたローマ カトリック教会公認の騎士修道会である。ゲームでたまに見かける「チュートン騎士団」はこれ。

 ということで、アレクサンドル ネフスキーはロシアの国難を救った救世主である。また、アレクサンドル ネフスキーは軍事的才能だけでなく、外交にも長けた人物だった。後にモンゴルが建国したキプチャク ハーン国に対し、宥和策をとり、巧みに争いをさけている。そのため、キプチャク ハーン国は、1246年にネフスキーをキエフ大公に任じ、さらにウラジーミル公も兼任させたほどである。その後、ネフスキーは、北部ロシアの統一に大きく貢献する。ロシアのギリシャ正教会は、このような功績を讃え、アレクサンドル ネフスキーを聖人としたのある。

■⑬東ヨーロッパへの侵攻
 1238年の冬から1239年の春にかけて、バトゥ軍はキプチャク草原を平定し、これが後のキプチャク ハーン国となった。バトゥ軍は、休むことなく進軍をつづける。1239年、ルーシ(ロシア)の母といわれたキエフを攻略、略奪と破壊の限りを尽くした。恐怖に駆られた住民は西方のハンガリーやポーランドに逃げ込み、それをモンゴル軍が追った。モンゴル軍は2手に分かれ、1軍はポーランドへ、1軍はハンガリーへと侵攻。怒濤のモンゴル軍は、ロシアを突き抜け、東ヨーロッパまで迫っていた。

 1240年、チャガタイ家の将軍ペタが率いる3万の軍団は、ポーランド王国に侵入、ヨーロッパの一角が崩壊しようとしていた。一刻の猶予もない。恐怖にかられたドイツのシレジア公ヘンリー2世は、ドイツ、ポーランド、チュートン騎士団の大連合軍を編成、ワールシュタット平原に軍を進めた。とはいっても、兵力は1万。これが、歴史上初のヨーロッパ連合Vsモンゴル帝国の会戦となった。

 1241年4月9日、両軍はワールシュタットの平原で激突した。歴史上名高いワールシュタットの戦いである。ヨーロッパ軍は重い鎧に身を包み、騎士道精神にのっとり、正々堂々戦いを挑んだが、モンゴル騎馬兵の敵ではなかった。機動力に勝るモンゴル騎馬兵は、戦場を疾駆、ヨーロッパ軍は大混乱におちいった。ヨーロッパの騎士たちはいいように打ち倒され、軍は壊滅し、多くの兵士がなぶり殺しにされた。ヨーロッパ連合軍は完敗したのである。

 ワールシュタットの戦いで、ヨーロッパ連合軍を撃破したペタ軍は、ハンガリーまで兵を進め、主力のバトゥ軍と合流した。こうして強大化したバトゥ軍は、そのままカルパティア山脈をこえて、ハンガリー平原中央に突入した。ハンガリー王ベーラ4世は果敢に立ち向かったが、モヒー草原で全滅した。

 それにしても、ヨーロッパが滅亡の危機にあるのに、ヨーロッパの王たちはなぜ一致団結しなかったのか?理由は内輪もめ。当時の2大勢力、神聖ローマ皇帝とローマ教皇がイタリアの支配権をめぐり、争っていたからである。主客転倒、ことの大小、軽重を知らない愚か者、と一刀両断にするわけにもいかない。こんな話は歴史にはいくらでもあるのだから。いずれにせよ、ヨーロッパ全土が各個撃破されるのは時間の問題だった。

 悪いことは重なるものだ。オゴタイ家のカダン軍が、トランシルバニアからハンガリー東南部に進出したのである。モンゴル軍は、どこにどれだけいるのか、誰にも分からなかった。ただ、重苦しい恐怖感だけがヨーロッパをおおっていた。ハンガリーは破壊、略奪、虐殺にさらされ、大平原は血で染まった。そして、その横には西ヨーロッパが広がっていた。モンゴル軍はついに、ヨーロッパに王手をかけたのである。

■⑭遠征の終わり
 その後、ジェベ・スブタイ軍は、さらに、西方のブルガル王国に侵攻する。ブルガル王国はブルガル人が支配する国で、現在のブルガリアにあった。ところが、ブルガル人の抵抗はおそろしく頑強だった。しかも、モンゴル軍の疲労はピークに達していた。征服をあきらめたジェベ・スブタイ軍は、ようやく帰国の途につく。

 一方、モンゴル第2軍を率いる長子ジュチは、カスピ海と黒海のキプチャク草原の征服を命じられていたが、実行しなかった。こうして、モンゴル帝国の西方大遠征は終わった。ブルガル地方とキプチャク草原は皮一枚で、首がつながったのである。難を逃れた支配者とその住民たちは、ほっと胸をなでおろしたが、それもつかのまだった。さらに恐ろしい大遠征が待ち受けていたのである。

1