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武田信玄の家臣「秋山虎繁」とは? 戦国武将

戦国武将 秋山虎繁/秋山晴近/秋山信友(あきやまとらしげ/あきやまはるちか/あきやまのぶとも)をまとめました。妻は織田信長の叔母「おつやの方」。

更新日: 2017年06月04日

hogehogemanさん

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秋山 虎繁

秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。

諱は『甲斐国志』による「信友」や、近世の軍記物に拠る春近、晴近、信近とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は「虎繁」であることが指摘されている。

信友は武田晴信(信玄)の父武田信虎追放の年である1541(天文10)年に元服し、翌年諏訪攻めで初陣。それから僅か5年後の1546(天文15)年、五十騎持の侍大将となる。それから高遠城守将、飯田城代を務め、伊那谷の重要拠点を守った。三方原の戦いでは、山県昌景とともに徳川家康を散々に追い回し「さても信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男ぞ」と評された。

しかし単なる猪武者というわけでなくではなく、1567(永禄10)年に織田信長が嫡子織田信忠と晴信の四女於松との婚約を申し込んだとき、重臣達がこぞって反対する中、一人友好を結ぶ利を唱えて賛成を主張し、戦略眼も持ち合わせていた。結局、晴信は、信友の主張を入れているので、晴信からの信任も厚かったのであろう。信友はこの婚約の織田からの結納品に対する返礼の使者に選ばれ、岐阜を訪れて、居並ぶ織田家諸将の前で堂々と晴信の名代を果たしているので、礼儀作法にも明るかったと思われる。

弘治2年(1556)には伊那全郡を押さえ、信友は伊那谷の重要拠点である飯田城代となり、相備え200騎を加えました。
永禄年中におこなわれた織田信長の嫡子信忠と信玄の娘松姫との婚約の際には、織田からの結納品に対する返礼の使者として信友が選ばれており、織田の諸将が居並ぶ中で見事な信玄名代を務めています。
 元亀3年(1572)、信友は山県昌景とともに信玄上洛戦の先陣となり、一軍を率いて伊那谷を進撃しました。徳川軍と衝突した三方ヶ原の合戦では、山県隊とともに家康を急追し、「さても秋山信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男」と言わしめたといわれています。
 元亀元年(1570)には東美濃へも侵攻し、遠山家を中心とした東濃国人衆と三河の山家三方衆からなる連合軍を相手に上村(恵那市上矢作町)で合戦となり、見事勝利を収めています。元亀3年(1572)には再び東美濃に侵攻し、遠山氏の本拠であった岩村城を包囲、籠城戦の挙げく謀略により岩村城を攻略しました。

天正3年(1575)に起こった長篠の合戦には参戦しませんでしたが、この合戦での武田軍の敗北により、その後の援軍を望めぬようになり、同年、岩村城の奪還をはかる織田信忠軍に城を包囲された信友は、城兵の助命嘆願を条件に岩村城を開城しました。

虎繁の最後は?

信長は虎繁らを赦免すると見せかけ、礼に来たところを捕らえ、長良川近くで磔刑にした。その理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が奥平の妻を磔にしたので、その報復だということだった(『甲陽軍鑑』)。

おつやの方もまた信長に捕らえられて逆さ磔で処刑された。あるいは信長が裏切られた鬱憤を晴らすために自ら斬ったとも言われる(『当代記』)。

そして、残った岩村城兵をにも攻め掛かります。武田軍も猛反撃し、織田軍にも多くの負傷者が出ますが、岩村城は炎上。武田軍の多くが焼け死ぬことになります。

参考リンク

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