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朝鮮による大虐殺…日本人なら知っておきたい「元寇」の真実

鎌倉時代に、元(モンゴル帝国)と朝鮮の属国・高麗王国によって行われた日本侵攻「元寇」(げんこう・「蒙古襲来」とも)。文永の役(ぶんえいのえき)、弘安の役(こうあんのえき)の2度の襲来において、高麗(朝鮮)軍が対馬や壱岐、北九州で残虐な行為をしたことを日本人は忘れてはなりません。

更新日: 2015年06月25日

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ponco2さん

★私たちが教科書で習う「元寇」

元寇(げんこう)とは、日本が2度(文永の役・弘安の役)にわたり元軍の侵略を受けた事件である-と習うことが多い。

「元寇」といえば、神風が吹いてモンゴルの大軍が蹴散らされたというイメージが強い

▽「元寇」は日本史史上の大事件であった

「元寇」は我が国の歴史上「明治維新」、「敗戦」と並ぶ国難だった。元軍がどう襲ってきたのかを知る必要がある

★「元寇」の真実とは?

▽一方的に支配下に入るよう要求してきた元(中国)と高麗(朝鮮)

1268年、元(中国)の属国であった高麗(朝鮮)の使いがフビライの書簡を持って、九州の大宰府にやって来た。使い走りであった高麗(朝鮮)が持ってきた書簡は日本に一方的隷属を迫るものであった

▽「元寇」は高麗(朝鮮)が主導した!?

「元寇」そのものが高麗(朝鮮)の執拗な働きかけの産物だった。高麗(朝鮮)が進言しなければ、「元寇」は起きなかった可能性すらある

『元史』によると、フビライ・ハンに仕えていた高麗人の趙彜(ちょうい)が日本への使節派遣を促した。更に高麗の世子椹(後の忠烈王)もフビライに盛んに東征を勧めたという記録がある。

★文永の役における高麗(朝鮮)軍の大虐殺

▽高麗(朝鮮)軍が中心だった「元寇」

1274年、元(中国)軍が日本に侵攻。この時、元の属国であった高麗(朝鮮)は遠征軍に加わり、対馬と壱岐に攻め入った

高麗(朝鮮)兵の対馬住民への残虐ぶりは日蓮聖人も書き残しているが、阿鼻叫喚である

高麗(朝鮮)軍は、武装がなく、抵抗できない相手に対して、何十倍もの兵力で襲いかかり、ありとあらゆる暴虐を尽くした

▽高麗(朝鮮)軍が対馬と壱岐でしたこと

対馬に上陸した高麗(朝鮮)軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵はことごとく殺害

高麗(朝鮮)の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる

山に逃れた島民をしつこく捜す高麗(朝鮮)の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした

高麗(朝鮮)軍は、命乞いを懇願する妊婦の腹を蹴破り、胎児をつかみ出し殺した

高麗(朝鮮)軍は、壱岐、対馬の人々を、男女とも素裸にして、男は手に穴を開けて船縁に吊るし、女は髪の毛で船縁から吊るしたとされる

高麗(朝鮮)軍に生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると“数珠つなぎ”にされた

日蓮聖人『高祖遺文録』

捕虜の手の平に穴を開けて縄を通すのは、百済の時代から朝鮮半島の伝統であり、“数珠つなぎ”は高麗(朝鮮)軍の仕業と推測される

韓国軍は女性や老人、子供たち住民を一か所に集め、機関銃を乱射するなど、極悪非道ぶりで知られる。

▽さらに

高麗(朝鮮)軍は日本で200人もの童男童女を生け捕りにして、高麗(朝鮮)の忠烈王とその妃に献上した

高麗(朝鮮)側の記録で確認されている

★弘安の役でも高麗(朝鮮)軍の残虐行為が繰り返された

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