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真田幸村(信繁)の子供は生きていた!仙台真田氏と片倉小十郎景綱

大坂の陣で、真田幸村(信繁)は戦死し、嫡男真田大助(幸昌)は自害し、幸村の系統はここで途絶えたと思いきや、そうではなく、幸村の子供たちは生き残り、仙台真田氏になりました。

更新日: 2015年06月26日

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chakenji106さん

大坂の陣で、真田幸村(信繁)と嫡男は戦死、自害

真田幸村(信繁)と嫡男、真田大助(幸昌)は、大坂の陣で亡くなりました。

嫡男 真田大助幸昌。
大助は大坂の陣に父・幸村とともに入場し、豊臣秀頼の最後を見届けると自害して果てた。

信繁には多くの子がいたが、真田氏における真田信繁家としては、嫡男の大助(真田幸昌)が生まれた時には既に九度山へ幽閉されており、幸昌は大坂城にて子を作らぬまま自害し、この系統は絶えた。

しかし、他の子供達が生き延びました

・次男「真田大八(片倉守信)」

幸村遺児、片倉氏に依る
片倉守信(真田大八)肖像
次男大八

嫡男、真田大助(幸昌)の系統は絶えましたが、この他の系統が残りました。

幸村の次男大八が、伊達家、片倉家によって保護されました。

大坂夏の陣で嫡男大助が自刃、信繁(幸村)も討死して信繁系の真田家は断絶したと思われていたが、次男の大助(片倉守信)が、仙台藩重臣の片倉家に匿われたことが、『宮城県姓氏家系大辞典』や、『仙台真田代々記』、『歴史読本』などにより明らかとなった。

信繁の二男である守信は、大坂の陣で敵対した伊達政宗(仙台藩主)の家臣であり、かつ、姉の阿梅の夫でもある片倉重長(仙台藩白石城主)に匿われた。

幕府の調査に対して、「真田信繁(幸村)の二男である大八は7才の時、印字打ち(石合戦)で石が当たり、守信(大八)は亡くなった。」とし、守信の素性に関しては真田信尹の子に「真田政信」という架空の人物を登場させ、その子としました。

大八死亡説や偽系図をでっち上げてまでも、伊達家、片倉家は、大八を保護しました。

参考
http://www.dokitan.com/sanada/story/03/index.html

次男の大八(真田守信)は、伊達家重臣で後に三女・阿梅の夫となる片倉重長の元で姉達と共に保護され、後に元服し片倉守信となった。以降、公式に残る信繁唯一の家系・仙台真田家として現在も続く事となる。

守信は真田信繁(真田幸村)の血筋を受け継ぐ4人の男子の中で、ただ一人真田姓を受け継いでおり(嫡男は未婚、三男・四男は他姓を名乗る)

五女阿梅(おうめ)等の娘達

幸村は、娘「阿梅(おうめ)」達を、伊達の重臣、片倉小十郎重綱に託しました

幸村は、大坂城内に入城させてあった五女阿梅(おうめ)を、敵方である伊達政宗の重臣、片倉小十郎重綱のもとにひそかに送り届けました。

慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣において真田幸村は徳川家康本陣に突撃をしかけるも、果たせず討死しました。その前日にあたる5月6日夜、幸村は、大坂城内に入城させてあった五女阿梅(おうめ)を、敵方である伊達政宗の重臣、片倉小十郎重綱のもとにひそかに送り届けました。

片倉氏の初代・二代に関する話をまとめた『老翁聞書』にはこう書かれている。

「寄せ手の中で片倉の英名は聞こえていたが、この度の目を驚かすような働きを見て、片倉家の隆盛は間違いないとみて、幸村が見殺しにするのも忍びなく思い重長公の前に託した」と記されている。
実際に片倉重長は大阪夏の陣において、道明寺の戦いで後藤又兵衛、薄田隼人兼相などを討ち取っており、この勇戦ぶりを幸村は見て、その姿に感服し子女を託そうと決めたらしい。

五女阿梅(おうめ)が片倉家に託され、次男の大助も片倉家によって保護されました。
阿梅は後に、片倉小十郎重綱の継室になりました。

片倉小十郎重綱は、伊達政宗の参謀、「智の小十郎」片倉小十郎景綱の息子。
片倉小十郎重綱は「鬼の小十郎」と呼ばれ、大坂の陣で武功を上げました。

参考
http://ncode.syosetu.com/n0532by/7/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E9%87%8D%E9%95%B7

リンク

補足 - その他の系統

三好 幸信(みよし ゆきのぶ)は、江戸時代前期の武士。真田信繁(幸村)の三男。
姉の御田姫の嫁ぎ先である出羽亀田藩主岩城宣隆の下に引き取られ、元服すると三好幸信と称し、380石を与えられた。
秋田真田家

真田 之親(さなだ ゆきちか、生没年不詳)は、真田信繁(幸村)の四男。別名に石田之親。通称は権左衛門。

信繁が九度山蟄居中、百姓の娘に産ませた子と伝わるが、詳しい出生の経緯は不明である。大坂夏の陣で父・信繁と兄・大助を亡くしたのち、讃岐に逃れて細川(石田)民部大輔国弘に庇護され、その養子となったという。

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