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大河ドラマ「真田丸」主役、徳川に果敢に立ち向かった名将、真田信繁(幸村)

2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の主役、徳川に果敢に立ち向かった日本一の兵 (ひのもといちのつわもの)、真田信繁(幸村)の軌跡を年表形式でご紹介いたします。なお、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」で真田信繁(幸村)を演じるのは堺雅人さんです。

更新日: 2016年04月03日

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chakenji106さん

真田信繁(幸村)とは

真田昌幸の次男。
大坂夏の陣では、3500の寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康を追いつめた。

実名においては「信繁」が正しい。

年表

永禄10年(1567年)(一説には永禄13年(1570年))、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれたとされる。

武田信玄の嫡男、武田義信が自害した年。翌年、信玄、駿河侵攻開始。
織田信長が美濃を攻略した年。

天正3年(1575年)、長篠の戦い
この後、父、昌幸が真田家を継ぐ。

信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。

天正10年(1582年)3月、武田氏滅亡。
真田家は、織田に臣従。滝川一益の与力になる。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変

天正10年(1582年)6月、神流川の戦い。滝川一益、北条に敗れ敗走
上杉景勝が北信濃に進軍。昌幸、上杉に臣従。
7月、昌幸、北条に臣従。
上杉と北条が講和。
8月、北条が徳川に敗北。黒駒合戦
9月、昌幸、徳川に付く。
10月、北条と徳川が講和。

その後、沼田領帰属問題により、真田と徳川の関係が悪化

天正13年(1585年)4月
昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えて7月15日に次男の信繁を人質にして上杉景勝に従属する。

ここでやっと、真田信繁(幸村)登場。外交戦略により、いきなり人質に。

天正13年(1585年)に徳川は上田に攻め入り、また並行して北条が沼田に攻め入ったが真田は守り通した(第一次上田合戦)。その後も小競り合いが続いたがいずれも真田は撃退

閏8月、第一次上田合戦(神川合戦)

天正13年(1585年)冬、次男の信繁が上杉景勝の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従した。

真田信繁(幸村)は、次に豊臣へ人質に出されました。

天正18年の小田原征伐に際しては父昌幸と共に従軍し、石田三成の指揮下で大谷吉継らと忍城攻めに参戦したと伝えられる。

天正18年(1590年)、幸村初陣。
(ただし、異説あり。初陣はもっと早かったという説。小田原征伐の時、昌幸ではなく秀吉に従軍したという説。)

1594(文禄3)年、次男信繁(幸村)が大谷吉継の娘と結婚しました。

慶長5年(1600年)
第二次上田合戦
真田方の大勝に終わった。

関ヶ原の戦い時

慶長19年(1614年)
九度山を脱出して子の大助幸昌と共に大坂城に入った

慶長19年(1614年)
大坂冬の陣
真田丸と呼ばれる土作りの出城(三日月形)を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先鋒隊に大打撃を与えた。

慶長20年(1615年)年の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(5月6日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。

家康本陣のみに狙いを定めて突撃を敢行
家康本陣に突入。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙した。
家康の本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという話も伝わる。

「わしの首を手柄にされよ」と最後の言葉を残して討ち取られた。享年49。

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