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【第二次世界大戦】日本陸軍の戦闘機まとめ【太平洋戦争】

第二次世界大戦時の日本陸軍戦闘機まとめ。試作機は飛行試験にまで辿り着いたもののみ掲載しています。97式戦闘機から隼、五式戦闘機まで。

更新日: 2017年05月02日

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holy777さん

◆陸軍飛行戦隊

飛行戦隊(ひこうせんたい、飛行戰隊)は、大日本帝国陸軍の航空部隊における部隊編制単位の一つ。通称は戦隊。帝国陸軍における軍隊符号はFRないしF。
従来の飛行連隊からの改編以降、飛行戦隊は支那事変(日中戦争)・ノモンハン事件・太平洋戦争(大東亜戦争)にわたり帝国陸軍解体に至るまで、陸軍航空部隊(陸軍航空隊・陸空軍・空軍とも)において中核となる実戦部隊編制単位であった。

初飛行:1936年10月
生産数:3,386機

 陸軍初の低翼単葉の近代的戦闘機。
 1936年、海軍は世界トップレベルの性能を持つ三菱九六式艦上戦闘機の開発に成功。未だ複葉戦闘機が主力だった陸軍はこれに焦り、次期試作戦闘機を各社へ打診。中島飛行機によって開発されたのが九七式戦闘機である。
 九六式艦戦を参考にした部分もあり、旋回性能と最高速などでこれを上回った。ノモンハン事変や日中戦争で活躍。射撃時の安定性も優れており「空の狙撃兵」と渾名された。
 太平洋戦争開戦時も数の上では陸軍の主力戦闘機であった。しかし固定脚で弱武装、短い航続距離などの弱点から1942年春ごろには第一線から退いた。

初飛行:1938年12月
生産数:5,751機

 日本陸軍を代表する戦闘機。
 航続距離の短い97式戦闘機に代わる護衛戦闘機として開発。しかし、軍が求める異常なほどの高い格闘戦性能を満たすことができず、一時は不採用となったが、太平洋戦争勃発により採用が決まる。
 軽快な運動性能と長い航続距離を誇り、海軍の零戦と比べられることも多い。また、防弾に無頓着だった海軍と異なり、一定の防弾装備も備えていた。構造上、翼内に機銃を装備出来ず、貧弱な火力が弱点だった。
 緒戦では零戦と共に日本の航空優勢を支えたが、戦局の悪化に伴い、最後は特攻に使用された。
 生産機数は陸軍最多。

初飛行:1940年10月
生産数:1,225機

 日本では異色の重戦闘機。
 当時、欧州で活躍していたドイツ軍戦闘機Bf109に触発され、陸軍は速度、上昇力、武装を重視した重戦闘機の開発を決める。
完成した機体は、大直径ながら大馬力のエンジンで600km/hを越す最大速度を発揮。ドイツ軍戦闘機Bf109Eとの比較でもこれを上回る成績を修めた。
 しかし軽快な戦闘機に慣れた陸軍パイロットからは好まれず、緒戦は鍾馗に不向きな侵攻戦だったこともあって、目立った活躍は出来なかった。末期には本領を発揮出来る迎撃戦が増えたが、相手が超高性能機B29だったこともあり、その性能を最後まで活かせなかった。

初飛行:1941年5月
生産数:1,690機

 様々な用途に使われた多用途戦闘機。
 1930年代後半、エンジン2機のパワーを活かした双発戦闘機が各国で開発される。日本陸軍も川崎に開発を命じ、何度かの仕様変更を経て二式複座戦闘機屠龍が採用される。
 しかし他国の双発戦闘機もそうであったように、単発戦闘機に比べて運動性能が低く、戦闘機としての評判は芳しくなかった。一方、軽爆撃機としては高速で十分な運動性能を持ち、対地対艦攻撃に使用した部隊からの評判は高かった。
 船団護衛や戦争終盤には37mm砲や上向き砲(上方に角度を付けて装備した機関砲)で本土防空戦におけるB-29迎撃任務に活躍した。

初飛行:1941年12月
生産数:2,750 - 3153機(諸説あり)

 当時、日本唯一の実用液冷エンジン戦闘機。
 ドイツのDB601水冷エンジン国産化を決定した陸軍は、これを搭載する戦闘機の開発を川崎に命じた。完成した機体は最高速度590km/hを発揮し、頑丈で急降下性能も高く、三式戦闘機飛燕として採用された。
 しかし工業力の低かった日本では複雑な液冷エンジンの生産、整備に悩まされ続けた。また、他の日本軍戦闘機に比べ重い飛燕は、米軍からは戦い易い戦闘機と見られてしまった。
 末期にはB29迎撃で奮戦したが、通常攻撃だけでは撃墜は難しく、体当たり攻撃(空中特攻)も頻繁に行われた。

出典www.ne.jp

初飛行:1943年4月
生産数:3,488機

 陸軍が期待を込めた大東亜決戦機。
 中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており、速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性のバランスが取れた傑作機であった。624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速である。
 しかし装備した2000馬力級の誉エンジンに不調が相次ぎ、運転制限を行ったまま戦わなければならず、末期の物資不足の中で本来の性能を発揮出来ないことも多かった。
 日本陸軍最強の戦闘機でありながら、戦争末期には特別攻撃に駆り出された機体もあった。

初飛行:1945年2月
生産数:393機(諸説あり)

 飛燕のエンジンを水冷から空冷に変更した陸軍最後の単発戦闘機。
 飛燕に載せたドイツの名エンジンDB601は当時の日本の技術力では手に余り、不具合が続出した。そこで陸軍は空冷のハ112IIエンジンへの換装を指示。ドイツのFw190戦闘機を参考に1944年末に設計が完了した。
 前面面積が増え最高速度は580km/hに低下したが、軽量化により運動性が向上。飛燕譲りの頑丈さも健在で、何より信頼性が格段に向上した。
 部隊での評判も良く、3機の四式戦より1機の五式戦を、との要望も出るほどだった。活躍の期間は短いが本土防空で使用された。

初飛行:1944年3月
生産数:215機(襲撃機型を含む)

 襲撃機、夜間戦闘機、高高度戦闘機を兼ねた大戦末期の多用途機。
 陸軍はキ96をベースとしたキ102開発を川崎に命じ、高高度戦闘機型の甲型、襲撃機型の乙型、夜間戦闘機型を丙型が開発される。
 57mm砲装備の乙型は200機以上が製造され、実戦部隊にも配備されたが本土決戦に備え温存される機体が多かった。
 37mm砲装備の甲型は25機が生産されたが、高高度タービンの性能不良で15機しか納入されておらず、実戦配備はされていない。
 電探や上向き砲装備の乙型は試作機完成直前に空襲で破壊され、そのまま終戦を迎えた。

(編集注)
キ-100五式戦闘機とキ-102は軍の制式化がされていたか不明である。終戦間際の混乱で、書類上は試作機のままであった可能性もある。ただし、配備数と実戦参加の実績から制式機と同等と見なされることが多いため、本まとめでは制式機の枠で紹介した。

・他機種からの転用

初飛行:1939年11月
生産数:1,742機

「戦略偵察」という先駆的思想を元に開発された高速偵察機。
航続距離、高速性、高高度性能に優れ、敵地奥深くまで侵入し情報を集める機体として開発。エンジンを強化したIII型は最高速度630km/hを記録し、戦時中に実用化された日本軍機では最速を誇る。
その高性能からB-29の迎撃のため、20mm機関砲×2を前面に装備したIII型乙、更に37mm上向き砲を装備したIII型乙+丙が少数採用されている。この機体は「武装司偵」とも呼ばれた。
実戦で多少の戦果は挙げたが、敵に護衛戦闘機P-51が就くようになると、鈍重な双発機は封殺されてしまった。

・試作機(未採用、開発中止、試作中に終戦など)

初飛行:1935年2月(九試単座戦闘機)
生産数:1機

 海軍の九試単座戦闘機を陸軍仕様にした機体。
 海軍で単葉全金属製の近代的戦闘機九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)が開発されると、陸軍はこれを陸軍仕様に改めた機体をキ18として三菱に発注した。
 1935年10月に試作機が完成し、陸軍で各種試験が行われ、その高性能が確認された。しかし、寿エンジンの不具合と当時対立関係にあった海軍の機体を採用することに陸軍内部での反発もあり、採用は見送られた。

初飛行:1936年
生産数:1機

 九七式戦闘機との競争試作に敗れた液冷エンジン搭載戦闘機。
 1935年、陸軍から新型戦闘機の競争試作指示が出ると川崎はこれにハ9液冷エンジンを乗せた低翼単葉の近代的戦闘機で挑んだ。
 中島キ-27、三菱キ-33と比較され、速度、加速性能、上昇性能は当機が秀でていた。しかし、空冷エンジンの他2機に比べて機体重量が300kg程度重く空戦性能では劣っていた。空冷式に比べて複雑な機構の液冷エンジンは信頼製でも劣り、試作3機種で最初に不採用が決まっている。

初飛行:1936年
生産数:2機

 キ18のエンジンを強化した改良型。
 キ18は高性能でありながら陸軍のメンツのため不採用となってしまった。三菱制作陣はこの陸軍の対応に不満を持ち、次の戦闘機競争試作時も採用の目は薄いとキ18のエンジンを換装した小改良機で望むこととした。
 しかしキ27、キ28と比較審査をしたところ、本機は小差ながらキ27を制して最優秀の成績を残す。なんとしても海軍のお下がりを避けたい陸軍はキ27とキ33に追加改良を指示。陸軍に不審感を持ち本機の試作に乗り気で無かった三菱に対し、中島はキ27を必死に改良した。結果キ33はキ27に性能で追い越され不採用となった。

試作機完成:1939年1月
生産数:11機

 不採用となった双発複座戦闘機。
 長距離爆撃機の護衛として双発大型戦闘機が陸軍で計画された。キ37/38/39の試作を3社が命じられたが後に撤回、川崎1社指名でキ45製作に変更された。
 機体はナセルストールや性能不良で不採用となったが、陸軍の意向でエンジン換装したキ45第一次性能向上機が改めて試作される。改良により要求性能はほぼ満たしたが、ナセルストールの悪癖が治らず不採用となった。
 この後、キ45第二次性能向上機が計画され、設計を一新し九九式双発軽爆撃機(キ48)を元にした二式複座戦闘機(キ45改)が完成した。

(画像は一◯◯式重爆撃機呑龍(キ49))
初飛行:1939年8月(キ49)
生産数:3機

 一◯◯式重爆撃機呑龍に旋回機銃を追加装備した爆撃機援護用の多座戦闘機。
 長距離侵攻する爆撃機に随伴し、旋回機銃でこれを護衛する機体として開発された。武装は20mm機関砲×5、12.7mm機関銃×3を装備。同様の機体に海軍の一式陸上攻撃機を改造した十二試陸上攻撃機改などがある。
 しかし旋回機銃の命中率の低さや、機銃搭載で機体重量が増加し爆弾を投下して身軽になった味方爆撃機に追いつけなくなるなど、実用上の問題が多く不採用となった。

初飛行:1941年3月
生産数:3機

 飛燕の前座となった液冷エンジン戦闘機。
 ドイツのDB601エンジンを国産化したハ40搭載の戦闘機を作るにあたり、設計者の土井武夫は重戦闘機のキ60を作り、そのデータを元にキ61(後の三式戦闘機飛燕)を作ることとした。
 キ60は1941年3月に試作1号機が完成。同じエンジンを積んだBf109-E戦闘機と比較試験を行った結果、速度や運動性で勝ることを証明した。しかし、同時期に開発されたキ44(後の二式単座戦闘機鍾馗)がこれを更に凌ぐ性能を見せたため、本機は不採用となった。

初飛行:1943年12月
生産数:2機

 当時の最新技術を詰め込んだ幻の高速戦闘機。
 川崎航空機はハ40液冷エンジン2機を機体の前後に串型に配置し、二重反転プロペラを駆動させることで、最高速度700km/hを発揮する戦闘機を計画。
 蒸気式表面冷却法や二重反転プロペラなどの開発に手間どり、試作機完成は計画から4年後の1943年12月となった。
 初飛行は無事終えたものの、5回目のテスト飛行でエンジンから出火。修理後も二重反転プロペラに不具合が頻発し、全力飛行も出来ないまま、戦局悪化を理由に開発は中止された。

初飛行:1944年11月
生産数:4機

 全日本軍機中、最速を誇った双発戦闘機。
 1941年5月、陸軍は爆撃機を護衛する長距離双発戦闘機開発を求めた。しかし、実戦では双発機が単発機に敵わないことが判明。計画変更が繰り返され、1943年7月の最終案では司令部偵察機や高高度戦闘機への転用も考慮された。
 キ83は1944年11月から飛行試験開始。計画値の最高速度704km/hには届かないものの、686.2km/hの速度を発揮した。しかし、墜落事故や空襲、東海地震などにより試験は進まず、そのまま終戦を迎えた。
 戦後、米軍の高オクタン価燃料による試験では762km/hを発揮したと伝えられている。

初飛行:1945年4月
生産数:1機

 対B29用の高高度戦闘機。
 1942年に試作が開始されたが、排気タービンなどの新技術に手こずり、初飛行は1945年4月となった。
 30mmと20mmの機関砲を各2丁装備し、2400馬力を誇るハ44で706km/hを発揮する計画であった。また、高高度性能を高めるため、エンジン後方の機体右側に排気タービンを装備した。
試験ではエンジンや排気タービン、後方引き込み式の脚に不具合が頻発した。結局、試作1号機が完成したのみで終戦を迎えた。

試作機完成:1943年6月
生産数:3機

 陸軍の方針転換に翻弄された単座双発戦闘機。
 陸軍は1942年8月に屠龍の性能向上型として双発戦闘機キ96の開発を川崎に命じた。
 途中、複座から単座への仕様変更があったが、1943年9月に機体は完成した。武装は37mm機関砲×1、20mm機関砲×2、エンジンはハ112-IIを装備。
高度6000mで600km/hの最高速度を出すなど、それなりの性能を見せたが、双発戦闘機が単発戦闘機に勝てないことが戦果から判明し、開発を中止。改めて複座型のキ102を開発することとなる。

初飛行:1944年頃(?)
生産数:10機

 四式戦闘機疾風(キ84)を木製化した戦時代用機。
 大戦末期、日本は深刻な資材不足でアルミニウム合金の入手が困難になっていた。
 これを木製材料で代用した機体として開発されたのがキ106。四式戦闘機疾風をベースに主要部品を木製化した。
 しかし強度確保のため機体重量が17%も増大し、速度・運動性能の低下が著しく、戦闘機としては使用出来ないと判断された。その他に製造の難しさや接着剤の不良問題もあり不採用が決まった。
 同様の資源節約型の機体としてはキ84を鋼製化したキ113がある。こちらも重量増大に苦しみ、その対応中に終戦となった。

初飛行:1944年7月
生産数:2機

 キ102の機体を流用した与圧式操縦室の高高度戦闘機。
 1944年7月に初飛行し、予圧キャビンに初期不良が起きたものの、改良を重ねて概ね実用に耐えうるレベルとなった。
 キ108は実験機的性格が強いため、これをより実用的にし、排気タービンを装備した機体がキ108改として設計される。こちらはキ48(九九式軽双発爆撃機二型乙)の設計を流用して、1945年3月に初飛行した。
しかし同年6月に空襲で破壊。双発高高度戦闘機はキ102甲を主力とすることも決まったため、そのまま終戦を迎えた。

初飛行:1944年9月
生産数:22機

 四式重爆「飛龍」に対空砲を載せた「空中砲台」。
 キ67「飛龍」は大型双発機にも関わらず、単発機並と称される運動性能を誇っていた。これに注目した陸軍は、本機に88式7.5cm野戦高射砲を装備させ、対B29用の特殊防空戦闘機とすることにした。
 1944年8月に完成した機体は、右側操縦席をホ501搭載のため廃止し、背面銃座なども廃止した。
 22機が生産され、B29に対して実戦テストが行われたが、航空性能不足や対空砲の時限信管調整の難しさから結果は芳しくなかった
 そのため、対上陸船艇用に用途を変更し、本土決戦に向け温存されたが、そのまま終戦を迎えた。

初飛行:1945年7月
生産数:5機

 ドイツ空軍のMe163を元に、海軍と共同開発したロケット戦闘機。海軍名は「秋水」。
 1944年にMe163の資料をドイツから供与されたが、その設計図を積んだ伊29潜水艦は日本へ向かう途中で撃沈されてしまう。そのため航空機に移し替えた資料の一部を参考に日本初のロケット戦闘機設計が進んだ。
 ロケット燃料による800km/hの高速と10,000mまで3分という驚異的上昇力を狙った。ただし、燃料噴射時間はわずか数分のみであった。
 1945年7月に初飛行するが、上昇中にエンジンが停止、不時着に失敗してパイロットが死亡した。終戦までその後も改良が続けられた。

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